昭和も 遠ざかり 今は もう消えてしまった あの なつかしい 仕事場 広く 全国から集い きそい合い また 去って行った人々 さまざまな形で 残したあしあと
できることなら いま一度 振りかえって あの頃 そこに わたしたちが居たことの あかし(証)のような 何かを探したい あの仕事場の ・・・
相模工場 昭和50年頃?
中央の大きな建屋が工場の中心、右手および上方の屋根の明るい色のL字の部分は、後で増設した部分。
まだ増設されてなかった昭和40年代、毎日、昼休み、ソフトボールをしてた記憶があるが。。。
この記憶、間違いではないかな。。
写真提供 横山晴行様
昭和62年頃作成の明石製品総合カタログには、下の案内図がある。
相模工場の解体、更地化、そして 高澤秀幸様のカメラ記録から
下は、高澤秀幸様提供の2006年版グーグルの航空写真、実写は2年程前のものではと。何故なら、2006年1月、工場解体の姿を写真に収め、この姿は無い筈と。
2006年には、相模工場は、もう、存在しなかったと。下の赤味を帯びた屋根が相模工場。
ちなみに、2年前は、2004年は、アカシがミツトヨに吸収合併の年。
以下の解体工事記録写真、高澤秀幸様提供。
解体した後は、隣の土地も含めて更地にされ、
そこに、新しい持ち主、NECロジステックの倉庫が。
相模工場跡地 平成25年の現在 google から
神奈川県座間市広野台2丁目5020番地この番地で、現在のGoogle の地図を見ると、かつての明石相模工場の位置とずれる。
地番表示が、当時と変わっているようである。
神奈川県座間市広野台2丁目7番地1の入力で、青風船マークは、二つになった。
旧5020番地が真ん中、7番地が下、これが正しいらしい。
昭和43年頃、お隣は日産自動車の一つの生産工場だった。
画面右の「−」(マイナス)スイッチ押していくと、広域表示となり、
最寄り駅、南林間、小田急相模原駅が現れます。
Earth モードにしたら、こんな風景になります。
(下の図は、コピーのため、図中のスイッチは効きません。操作は、上の図で行って下さい)
Google が、この映像を取り込んだのは何時か解らないが、平成23年11月現在のデータです。
ただ、Google は、都心部においては、ビルなど、建物他の立体表示をしてくれますが、
郊外の座間までくると、それが無いのがちょっと残念でした。上の品川と比べるとその差は大きい。
相模工場 入口風景
右手の大型バスは、小田急線の南林間駅と、この工場を結び、通勤専用バス。
黒塗りの乗用車は、お客様の送迎用。
平成25年の南林間駅
相模工場にバランサー関係が品川から移転し、生産現場としてスタートした頃、
社員の通勤は、南林間駅と工場間の専用バスで結ばれた。
当時の南林間駅は、まだ、閑散とした風景の中にあった。
平成25年、沿線には、マンションも多く建ち、林間と言う地名のような林は少なくなった。
下は、東林間から、中央林間、そして、南林間駅までの車窓風景です。
逆方向の鶴間駅から、南林間駅までの車窓風景です。
小田急相模原駅の今昔
右は、「小田急80年史」に昭和の小田急相模原駅として掲載されている写真です。
http://www.odakyu.jp/company/history80/02.html#3
下は、平成25年、Google earth による小田急相模原駅です。
下の切り替え表示は、相模原の関連情報をネット検索して見つけた米軍の航空写真、著作権の所在は不明。
明石のあの時代を表現するのに、是非織り込みたい絵でした。
一枚目は、戦後間もない、昭和23年のもの。
7年後、昭和30年、31年の写真は、
最早戦後ではないと言われた時代。
家が少しづつ増えている。
そして、昭和36年の写真は、高度成長時代の中、畑、林が宅地へと急速に変わっていく。
さらに、66年後の平成25年のGoogleの映像を重ねました。
相模工場の竣工は昭和39年、まだ、畑がたくさん残っていた時代だった。
相模工場は、この地図、写真の真下の方向になります。
航空写真原画像は大版写真、その近くの地域も出てきますが、
竣工当時、工場付近は、駅から離れていることもあり、畑の多く残る地域だったようです。
米軍航空写真は、地域開発、高層ビル建設等に関する問題を提起されている
「さがみパら.ネット」さんから一部お借りしました。 http://sagamipara.net