坂戸寮 川崎市高津区坂戸

昭和36年入社の新入社員で、崖崩れの危機で避難した鶴見寮のメンバーが最初の入寮者だった。
昭和37年から、昭和60年代まで、主として、新入社員が入社時からお世話になった寮。
田圃に隣接する未舗装の道。夏の夜には、遠くから食用蛙の鳴き声が、ボー、ボーと聞こえた。

(画像情報提供 新名雄史様)

  左の坂戸寮の看板は、平成26年6月21日開催の明石会会場に展示頂いたもの。
   大変きれいな状態で保存されており、書かれている当時の住所も鮮明。

   しかし、平成26年の今、Google で、この住所を入力しても、
  当時の寮の場所を示してくれない。

  昭和の終わりとともに、幕を閉じた坂戸寮、時を感じさせる一品です。
  下の写真で、寮の人達の背景となっている玄関にあるそれは、以前のもののよう。
  住所表記が無い。

下図の赤い■が、寮の存在した場所。
平成24年の今、そこに、昔の面影はない。丁字路の道は拡幅され、舗装されている。 地図はマピオン(http://www.mapion.co.jp)のデータを使わせていただきました。
図中の富士通ゼネラルは、かつて、八欧電気、
その後のゼネラルとして、この地に名を変えながら存在。
時の流れを思わせる。


50年前の新社会人の時代、そこに、お世話になった寮があった筈だった。
しかし、寄せられた情報から想像すると、木造二階建てのアパートは、
昭和の時代に役割を終えたようである。
でも、その場所を確認したいと、当時の新社会人、初老の三人は訪ねてきた。
車で近づいていく。前方の白い四角な建物を目指して。

アパートは、木造からコンクリートにかわっているが、でも、プレハブだろうか。
道は、舗装され、幅も広げられて、車も通り易くなっていた。
あの時代、雨の日に、タクシーで帰った時、
タクシーは、泥濘(ぬかるみ)のこの道に入るのを拒否したと、
それで喧嘩になったとか。
車中、そんな昔話が聞こえてきた。
平成24年12月5日の昼下がりだった。

南武線のこの辺り、風景一変、いつから高架鉄道になったのだろうか。
新城駅もホームが上に移動したため、駅の構造も変わってしまっていた。
古い写真を見つけた。下の写真は、昭和38年頃の入寮者と賄いの加藤さん。

昭和36年、明石製作所は、寮制度を軌道にのせるため、民間のアパートを借り上げた。
都会を知らない、地方出身の若い社員を案内し、新生活をスタートさせた。
寮仲間にとっては、鶴見寮の崖崩れ危機もあったが、より記憶に残る年となり、
今は楽しい思い出となっている。

当時、総務の村上様、矢島様他、御担当者の皆さまには、大変なご苦労をおかけした事と思われます。
入寮者一同を代表?して、感謝し、御礼申し上げます。
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