明石製作所はあの戦中をどう生き抜いたか・・平生釟三郎日記から 


昭和19年6月5日

三時、明石和衛氏来訪。野田氏海軍省に出頭する旨を述べ、辞去す。
明石製作所は軍需会社と指定せられざるも協力工場として軍需品の製造をなし、
殊に同所の専売品たる材料試験機は軍需工業会社の欠くべからざる精密機械にして、
注文殺到、需要を満たすこと甚だ困難なり。
従て同所の業績は良好なりとのことなり。
明石氏は本年五十七歳。
氏が大学卒業直後、工業会社又は工業学校に勤務することなく、独立独歩、
自己の智能を以て新しき考案を利用し身を立てんことを決心し、
明石製作所を創立し今日に至りたるものにして、
其間極度の苦心と苦労を経て今日に至りたるは余の最も推奨する所なり。
されば明石製作所の財政的に困難なる時に於て極力援助したることは、
之を知るものは余の助力に依りて今日あることを認識せり。
余がmottoとする正しく強く働く者に天恵ありとの実例を示すものと云うべきか。

明石氏の親友に矢野矢氏称する工学士あり。
同氏の紹介にて会見したるに明石氏と同一の希望を有し、
独力を以て世に立たんことを望む者と誤認したる結果、
同人を安宅彌吉氏に紹介し、安宅氏と同額出資をなし、
約二年間に十万円余の助成をなしたるに、
失敗して工場を閉鎖したる後は音信不通、恩誼を忘却せる男と云うべし。
明石氏に其後の模様を聞きたるに、
矢野は常に真面目に世渡りするは馬鹿気たることにて、
自分の口先にてウマクダマシテ出資させることが賢明なるやり方なりと称え居りたれば、
先生は口車に乗せられたることと思う。
同人は一昨年病歿して、今頃はゑんまの庁にて極刑に処せられ居るならんと大笑す。
快談一時間にして帰る。

昭和19年7月2日

午前十時、日本書籍株式会社社員砂賀實(すずの従弟)に伴われ、
逓信省電気技師杉浦讓治来訪す。
氏は砂賀氏の紹介にて明石和衛氏の斡旋、其効を奏し、
日本国際航空会社に入社せしを以て謝意を表する為、来れるなり。
同氏は明石氏の紹介にて該社の常務原愛次郎氏に面会せしに、
常務は氏の電気に関する智識豊富なるを認め、入社を慫慂せり。
よって直ちに入社に決定せり。氏も大いに満悦せり。

昭和19年12月14日

午後一時半、竹藤益太郎来訪。
氏は誠に器用なる性格の人にして、明石製作所に勤むること二十四年、
重宝なる人物なり。
本日来りて懐中電灯、電球、其他の破損せし電灯用器具を修繕し、
新規の器具と取かえたり。
今後共斯の如き小技術者を依頼せば便宜少なからず。

昭和20年 2月12日
四時半、砂賀實より依頼を受け明石和衛氏に紹介して
日本航空会社に入社したる杉浦譲治氏来訪。
同氏は余の斡旋により入社したるを以て、
給料も参百参拾参円支給せらるることとなり、
本人にとりては極めて満足なる取扱いとし、大いによろこべり。
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昭和20年11月27日 平生釟三郎氏 死去 享年79歳 ===================================================================
とう~平生釟三郎日記第18巻(最終巻)を読み終えました。
2010年12月から足掛け10年、実に~長かったです。

平生釟三郎氏曰く、
「人間はおもしろいか、ありがたいかの
いづれかでなければ寄ってくるものぢゃないよ」と。
全くその通りでした。
おかげで読み続けることが出来たのだと思います。

ひょっとしたら喜んで戴けるかも知れないと思い、
ご連絡を差し上げた事がきっかけとなりメールのやり取りが出来て、
少しはお役に立てたかと喜んでおります。

平生釟三郎日記愛読者 岡部 穣様より 2019/07/14 ===================================================================
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