明石製作所創業後10年間の推移 


大正05(1916) 05月10日 創業 合資会社明石製作所 資本金8万円
大正07(1918) 05月17日 明石製作所 売上 7.7万円  純利益8百円
大正09(1920) 08月15日 明石製作所社長 明石和彦生れる 明石和衛社長 32歳
大正10(1921)        東京市浅草区七軒町二 機械製造業 職員21名
大正12(1923) 09月01日 関東大震災により、浅草七軒町にあった明石製作所の建屋が損壊。
       ドイツの精密機械会社「エミルパソスプルダ」等三社の代理権を獲得輸入販売開始
       モール社の材料試験機に改良、鋭意研究、当社独自の試験機製造に成功
大正13(1924) 03月 山本商会創業 明石製作所の輸入事業を譲渡
       明石和衛社長(35歳)は以後、監査役として参画
大正14(1925) 01月 山本敬蔵社長渡欧 明石和衛社長 36歳

平生釟三郎の日記からの明石製作所創業10年後の決断   昭和2年8月13日 

日記によれば、大正5年の創業から、10年になる、昭和2年、3年の頃まで、明石は苦戦続きであった。
その結果として、平生釟三郎氏は、今までの明石を整理し、別途の、会社設立を明石和衛氏に促す。
その経緯が、平生釟三郎日記から読み取れる。

本ページは、平生釟三郎日記の愛読者である岡部穣様からの情報提供によります。
平生釟三郎日記であるから、その人の主観に影響された内容であることは否めないだろう。
平生釟三郎略歴をみると、この時期まで、一橋首席卒業後、商業高校教諭、校長。
その後、保険会社で、専務を務める。

メーカー系の経験は無い。その後、幼稚園、小学校設立、その頃、明石和衛院生と出会った。
秀才、平生釟三郎、氏は、後年、鉄鋼、造船会社に関係するが、
エリートの経営者には、小規模のメーカーを指導するノウハウまでは持ってなかったのではないだろうか。

二人での創業の中嶋市太郎氏(義兄・海軍少将)、鈴木鬼一氏も
平生釟三郎氏の認める人物なるも、創業期の会社の製造、営業を立ち上げるには、
それに役立つ経験が不足ではなかったか。
更には、明石和衛、氏は、実務経験は、ゼロに近かったのではないか。

しかし、創業から十年、明石和衛氏は、実社会、業界で、多くを学んでいる。
また、関東大震災といった試練にも耐え、
かつ、ビジネスのパートナーともなったていた、山本商会の山本敬蔵社長を助ける等、
その実績、手腕も評価されていいのではないか。
(小金井製作所社史)
しかし、昭和2年当時は、明石製作所社内に、開発、製造、営業に、
最終責任を持つ、明石和衛氏の助けになるスタッフも不在だった。
そんな状況、想像もしてみました。

下の日記で、平生釟三郎氏は、述べている。
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明石氏はbusinessという真意を了解せざるが如く、
所謂才子才に斃るるの古諺を実演しつつあるが如く、単に権門に阿附するとか、
社交的縁故に依るとかに依り有利なる仕事を得んと虎視眈眈たるものの如く、
businessに於て誠意も忠実も欠如するを以て一時を糊塗することは可能なるも、
永遠の基礎を定むること能わず。
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大正7年07月20日 の日記では    
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余は製作所としては制作上に関して他に優るの点を有せざる可からず。
単に製作品を売却することにのみ腐心するとせば学理を極め経験を積みたる技術者を要せざる可く、
商機を見、商勢に通ぜざる似非技師を以て足れり。

或は日本の製作所が、
単に需要家たる工業会社若くは官庁の技師と関係を結びて巧に売込を為すを見て、
製作所の成功は売込運動の巧拙に在りと即断する如きは誤れる観察なり。
技術的製品売薬と同一視すべきものにあらず。
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無名の試験機メーカーが、技術的製品を売る。
例え、新技術、新発明が、特許が含まれていても、知名度の無い会社は苦しい。

マーケティングなどの言葉もない時代。
広告より、威力を発揮するパブリシティ(専門誌等に記事形式で、製品の紹介)など、
使える媒体も少なかったのではないか。
論文も、パブリシティ効果はあるだろうが、明石関係者の論文発表は、昭和10年代後半から。
この状況では、市場開拓の手段は、
開発者、設計者、代表者である明石和衛氏のトップセールスしかない。
幸い、弁が立つ氏は、その面でも活かされるべき才能。
聡明な、平生氏の言う批判的な表現、
自己の知能、自己の手腕を頼りて・・の表現は、不可解ではある。

しかし、上で、平生釟三郎氏は、
メーカーは、学理を極め、他に優る技術的製品を創れば、売込など不要と言っている。

売薬などの消耗品の商品と異なり、試験機等の機械類は、顧客は、企業、学校、研究所となる。
僅かな繋がりでもあれば、社交的縁故に依ることも厭わず、でしょう。
明石和衛氏の努力、試行錯誤は認められなかった、理解されなかったのだろうか。
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氏は自己の知能、自己の手腕を頼りて成功宜に到るべしとなして
一事に執着して一路を邁往するの確乎たる熱心も決意もなく、
opportunityを捕えて策動するを以て成功の基と誤解し能弁と巧辞を以て籠絡しつつ来りしも、
今や如此き方法も智畧も決して成功の捷径にあらざるを自覚せしものか、
果して然らば遅れたりといえども晩しとなさず。
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開発設計作業の多くも、明石和衛氏が、一人で背負い、度重なる設計変更を疎まれ、
営業面の突破口を見つけられず、愚痴も言える相棒もいない。

僅かでも、可能性が匂うなら、opportunityを捕えて、ぶつかっていく、当然の行動ではと、
そんな観方、読み方もできそうです。
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以て同氏は多少案外の様子なりしが、余の意見に同意を表し、尚塾考すべき旨を答え、
次でsportsの事に及び約一時間半にして辞去せらる。
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同氏は多少案外の様子とは、
平生氏の観る明石製作所の苦境と、前方にわずかな光を見てたかの明石氏との
状況判断のギャップが大きいのではないだろうか。

一橋で、商業を学んだ秀才と東大で工学を学んだ秀才の二人が、
工学を活かした商いに対して、見解にズレが生じたということだろうか。
どちらがどうとは言えないが、二人の出会いの頃からの、飄々とした明石和衛が、そこに居るようです。
厳しい判断、方針転換にも、臆することなく、次でsportsの事に及び約一時間半語って辞去と。

この日記は、当時の創業者明石和衛氏の孤独な戦いの一端を伝えている。

昭和34年(1959)7月発行の社内誌「あかし」第6号には、「明石の昔を語る」という座談会の記録がある。
その中に、当時、昭和34年、鈴木鬼一氏が社員として、在籍とある。
下の昭和2年8月31日と同一人物とすると、出戻りされたのであろうか。コメントは難しい。

また、大正8年頃入社の渡辺清氏、(昭和34年在籍)は、震災前までの様子として、
和衛社長は、社長方針で、手工業製のコンパスを自動機を創って自動化し、
世界を相手に売りたいと、相当お金をかけて、熱中していたと。

最近(このあかし発行の頃?和衛社長の晩年の言葉か)も言われたと。
創業期、明石和衛氏から、平生釟三郎氏に、目論見として伝えていた理化学聯合機械とは、
材料試験機だったろうか。

松村式試験機として、「あかし」の中で語られ、明石和衛氏の特許も言及されているが、
このテーマでは、明石成功物語にはもっていけなかった。
それを補おうとコンパスが出てきたが、天才明石和衛氏は、開発室に閉じ込めておけば、解決と考える、
天下国家を論じる平生先生に、伝えられる内容ではなかったのだろうか。

救いは、平生釟三郎氏が、明石氏の才能を、最後まで、信じ続けた事であった。

  平生釟三郎日記         大正編(大正5年〜8年)

大正5年02月04日  教育品製造会社の件
大正5年02月05日  教育品製造会社の内紛等
大正5年02月20日  明石製作所創業の三ヶ月前、既存企業の買収、資金の準備等
大正5年03月19日  教育品製造会社買収に関し協議
大正5年03月20日  教育品製造会社の買収交渉
大正5年04月18日  明石製作所の純利益分配案協議
大正5年05月02日  明石製作所の開業に思う   5月1日 明石製作所開業
大正5年05月22日  50歳の誕生祝い  明石和衛 27歳
大正5年12月19日  中嶋市太郎 鈴木鬼一、高田行蔵氏来訪 
大正6年12月16日  明石氏来訪 経営ニ関シテ問ウ 中嶋氏ノ件
大正7年05月17日  明石、鈴木両名招致 明石製作所の営業を問う
大正7年07月20日         2015/01/23 岡部様(平生釟三郎日記愛読者)より情報提供
大正7年08月02日  明石、鈴木鬼一氏来訪 明石製作所の決算報告
大正8年07月13日         2015/01/23 岡部様(平生釟三郎日記愛読者)より情報提供

昭和2年4月 5日       第8巻 岡部様(平生釟三郎日記愛読者)提供情報

午後美代子、三郎を伴うて鈴木母堂を訪う。母堂は今や八十一才の老齢。
今や長姉重々の不幸に逢いて尤も同情すべき境涯にあるも、すず子は余に嫁し、
鑛子は橋本氏の病身のため少なからざる辛抱を要するも二子は今や校窓を出で一人前となり、
殊に國彦は東京音楽学校出身の秀才にして、
國彦が音楽学校志望せるときは渋面を作りし橋本氏も國彦の世評を聞きては笑顔を作るものの如し。
鬼一は尤も孝心深き男子にして、勤倹に力行に自己の力一杯に真面目に努力しつつありて、
其相棒ともいうべき明石氏は余りに明敏多能なるが為め抜群なる天稟の知能を有するにも拘わらず、
多年の心労と努力に酬られざるに拘らず其女房役として
其任務を満足に尽くしつつあることは真に喜ぶべきことにして、
鈴木母堂は老て喜ありし人というべし。

昭和2年6月 6日       第9巻 岡部様(平生釟三郎日記愛読者)提供情報

昨夕東京より鈴木母堂、橋本鑛子に伴われ来訪、約十日間滞留の予定なるが、鈴子の満足此上もなし。
老年に及びて比較的一時の衰弱を来たさずして八十一才の高齢迄能く其健康を維持し
得たるは全く鬼一の孝養あるが故なりという。
実に彼は唯一の夫子なるも心優にして母に仕うることに誠意を以てし、何人も追従を許さざるものなり。
彼は老うる母をして生活難につき再び心を労せざらしめんとして、
現在の事業につきては其店主たる明石氏と意見を異にするのみならず、
氏の行動に関し満足せざる点少なからざるにもも拘わらず敢て反抗的態度を取らず、
隠忍して氏の欠点を補うて努力怠ることなきは真に頼しき精神なるが、
明石氏はbusinessという真意を了解せざるが如く、
所謂才子才に斃るるの古諺を実演しつつあるが如く、単に権門に阿附するとか、
社交的縁故に依るとかに依り有利なる仕事を得んと虎視眈眈たるものの如く、
businessに於て誠意も忠実も欠如するを以て一時を糊塗することは可能なるも、
永遠の基礎を定むること能わず。
鬼一もかかる不忠実不誠実なる人と事を共にするも労多くして功少なきを思い、
終に今回断然明石製作所を辞任して
独立して大嶋に於ける火山砂の取扱をなすことに決心せる旨、鑛子さんを経て伝言せり。
この仕事が如何なる見込あるやは詳細を聞くにあらざれば判断ができざるも、
親孝行にして老母の安慰を専一とせる
鬼一の最後の決心とて必ず安全確実なるものならんか。

昭和2年8月13日       第9巻 岡部様(平生釟三郎日記愛読者)提供情報

今朝明石和衛氏来訪。
同氏が余等の後援を得て明石製作所を創立してより已に十年なるが、
其間何等の成功もなく多額の負債を残したるのみにして
他人に迷惑を掛け自分にも得るところなかりしは、
自分の経営振が不真面目にして誠意を以て業に当らざりし結果なることを
今更後悔せしも過ぎたることは帰えすすべもなければ、
今日以後大に心を翻えし全力を集中して将来五年乃至十年間に於て
人間らしき人間となることに奮闘努力すべしと前提して、
明石製作所の敷地を今回松坂屋及復興局に売却の約束成したるが、
土地の帳簿価格が低くして売価との差大なるが、
之は会社の利益と計算せらるべきものなれば多額の処得税を課せらるる恐あれば、
種々考慮の末一旦明石製作所を任意解散として精算事務に移すと共に
新に会社を設立するの外なければ、
余及其他の負債を此際新会社の出資に充当せられたしとの事なりしが、
余は如此きは同意するを得ず。
何となれば出資とするに於ては
たとえば会社の事業が利益を挙げ配当をなすにあらざれば何等の収益なかるべし。
現に磯山のloanの如き、毎月其利子を以て生活費に充当せるに於ては
磯山氏を不安に陥れしむるものにあらずや。

故に此際解散すとせば負債額は明石氏の私債とし、
新規に設立せらるべき会社の出資権を担保とするか、
然らざれば新会社が明石氏及其一族の名を以てする株式会社なれば
其会社の負債とするにあらざれば不可なりと主張せしを
以て同氏は多少案外の様子なりしが、余の意見に同意を表し、尚塾考すべき旨を答え、
次でsportsの事に及び約一時間半にして辞去せらる。
思うに氏が明敏なる頭脳と健全なる体格を有しながら十年の星霜を経て何等の成功もなく、
碌々として単に他人の負債に依りて生活せし如き結果を生じたるものは
同氏が人格的に欠陥ありしに外ならず。
氏は自己の知能、自己の手腕を頼りて成功宜に到るべしとなして
一事に執着して一路を邁往するの確乎たる熱心も決意もなく、
opportunityを捕えて策動するを以て成功の基と誤解し能弁と巧辞を以て籠絡しつつ来りしも、
今や如此き方法も智畧も決して成功の捷径にあらざるを自覚せしものか、
果して然らば遅れたりといえども晩しとなさず。
氏にして真に誠心を以て忠実に其業に従わんか、
五年乃至十年の中には一廉の成功を獲んこと決して至難にあらざるべし。

昭和2年8月31日       第9巻 岡部様(平生釟三郎日記愛読者)提供情報

今朝鬼一来訪
彼の大嶋産火山砂利事業資金として尚¥6,000の金融を求める
明石製作所と絶縁の事も決定し他に働くべき事業もなく、
已に八十才に達せる老母をして絶望の淵に沈ましむる恐あるものなれば前後を考え不承不承、承諾す。

昭和3年1月13日       第9巻 岡部様(平生釟三郎日記愛読者)提供情報

昨夕明石和衛氏来訪し、明石製作所改造の件につき相談あり。
結局余の出資金は平生乙彦名儀にて
払込済の株金として金拾万円の株式会社を組織することとし、
貸金は明石氏個人の負債として無利息にて月賦返還することとして余も承諾を与えたり。
果して如此き組織を以て成功すべきや。
氏の明敏なる知能を有する少壮者なるが、
余りに天賦の知能を矜りて其功を急ぎたるため辛抱の点に於て欠くるところあり。
事業を開始し以来十年余なるも、
尚何等確固なる将来を予期する能わざる状況にあるは惜むべきなり。
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