July,1956 日本機械学会誌 (昭和31年) 第59巻 第450号 から転載

明石和衛博士をおもう    久田太郎

去る5月6日本会、元副会長明石和衛博士が急逝された. 博士は大正2年東京帝国大学機械工学科卒業後間もなく 同5年明石製作所を創立され, 本年5月10日にはその40周年記念祝典をあげられる運びになっていたところ, その直前俄かにこの世を去られたことは,まことに痛恨のきわみである。

故明石博士は徹頭徹尾、創意くふうの人であった。 筆者は昭和8年から十数年間親しく博士の指導をうけた者であるが, その間毎朝のように製品についての新しいアイディアを携えて出社される熱心さには, 心から敬服すると共に、まことに応接にいとまもないありさまであった. もちろんそれらの着想のすべてが実用化されたわけではない. なかには少しディスカッションをしているうちに,理論的に怪しくなったり, 実用上どうかと思われるフシの出てくるものもあったが, しかしこのように毎日新しい 着想もがなと「自分で考えられる」姿には,われわれ後輩技術者に深く感銘を与えるものがあった. またなかには相当面白い考えだとわかっていながら,筆者らの怠慢からぐずぐずしているうちに, まんまと外国に先べんをつけられてしまったものもいくつかあった。 最近ソ連で発表した3角形の圧こんが得られるビッカース式かたさ計などもその例である.

このような博士のたゆまない創意くふうの努力は,数多くの特許発明を生み, その製品をきわめてユニークなものとした。 発明奨励賞等の受賞は国外よりのものを含めて十数件に及び, 昭和15年の2600年式典の際には多年の功労により産業人としては破格の旭日章を授けられた。 しかし明石博士は決して単なる一人よがりの街の発明家ではなかった. 自分の着想には常に理論の基礎付けと実験の裏打ちを求めるということを忘れない科学 的、精神の持主であった。

博士はまた“自分で考える"ことに努めるだけではなく, 他人の新しい着想や研究にも常に尊敬と興味を注がれ, 大学・研究所での研究品の試作には、積極的な協力と犠性を惜まれなかった。 外国の模倣を非常に嫌われた反面,外国文献には絶えず眼を通され, 海外の技術事情にすこぶる明るかったことは人の知るところである。 学会の講演会・研究発表会等は熱心に聴講され, また機械学会・精機学会等の運営のためには忙しい時間を割いて非常に尽力された.

このように見てくると博士の交友には, 業界人と同じ程度に学界人が含まれていたのではないかと思われる そう言えば博士自身あるいは産業人というよりはむしろ学者と称すべき人であったのかもしれない. 恩賜の銀時計をもって大学を卒業し,引続いて当時の大学院特選給費学生として、母校に残られた博士は そのまま大学教授となられるのが自然のコースであったかとも考えられる。 事実戦前旭日章をうけられた時よりも,また戦後黄綬褒章をうけられた時よりも, いずれにもまして昭和19年工学博士の学位を得られた時の方が, はるかに博士にとって快心事であったように見受けられた。 会社の社長として多忙の身でありながら,その学位論文を自らまとめられた時の博士の勉強ぶりは また異常なもので,われわれ後輩の怠惰を戒めるものがあった。

学位論文はささえ刃(ナイフエッジ)の負荷能力に関するものであったが, ささえ刃は会社の製品たる精密機械にとって 最も大切な機械要素としてトレード・マークにまでとり上げられているものである。 したがってささえ刃についてはあらゆる面からその性質を解明することに努力され, 将来これに関する英文の著書を著したいとまで念願しておられたのに, 遂にその機会が永久に失われてしまったことは, 学界にとってとりかえしのつかない痛恨事である。

しかしまた学者という言葉だけでは未だ博士の全貌を表わしつくしてはいない・ 博士は芸術の観賞に趣味をもっておられたが, それが仕事の上に反映してか、早くからインダストリアル・デザインの重要性を認識しておられた。 実際に彫刻家石川確治氏等を工場に伴って, 製品の外観に対する芸術的見地からの批判を求められることしばしばであった。 そのためにいつまでも最後の図面が出来上らなくて設計員が悲鳴をあげるくらいの熱心さであった。 最近でこそインダストリアル・デザインの語は工業界に普及してきたが, それも主として日常生活に関係の深い商品についてであって, 明石博士が今から20年も前に試験機その他の精密機械に インダストリアル・デザインの重要性を認識して これを実行にうつされたことは,まことに卓見というべきであろう.

博士はまたスポーツマンとしても有名で,その昔わが短距離界に明石時代を現出された由である。 大正14年には極東オリンピック・チームの監督としてマニラにも遠征された. その後ゴルフのクラブを握られるようになったが, 何事によらず研究熱心な博士はたちまちこの方面でも頭角をあらわし, 昭和3年には摂政杯を獲得された。ゴルフの練習の仕方もまた科学的で, たとえば傾斜したといを用いて一定条件でポールをころがしたとき, どんな確率でホールヘはいるかを詳しく実験するといった調子である。 こんな風であるから博士のスポーッに関するレクチュアは実に理詰めで巧妙をきわめ, 短距離やゴルフに全くのしろうとの筆者でも, 博士の講義をきいているとすぐにも大選手になれそうな錯覚をおこすくらいであった。 晩年はプロ野球に格別の興味をもたれ,特に巨人軍の熱烈なファンであったが, あたかも5月6日後楽園球場で巨人・中日戦を観戦中に倒れられたことは奇しき因縁というべきであろう。

博士は終世禁酒禁煙,身を持することきわめて厳であった。 平素はあまり旅行をされない方であったが,晩年は観光保養の旅を求めておられるようすであった。 そして今春の機械学会の大島行きに参加されたことを大変楽しい思い出にしておられるようであった. 思えばこれが最後の旅行となった。 昨年の暮, しばらくぶりでお目にかかって例によっていろいろ面白いお話を伺っているうち, 談たまたま宗教論に及んだ。 このようなことは博士との20年にわたる交誼中でも初めてのことであるが, 筆者の書生くさい無神論に対して,日ごろ合理主義者の博士が意外にも色をなして反ばくされた. その時の博士の真摯な面持を心に浮べながら, 聖イグナチオ教会に安置されたひつぎの前に深く頭を垂れたのであった.

昭和31年5月13日記(1956)

(情報提供 鹿熊英昭様)

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