昭和36年(1961)8月発行の社内誌「あかし」第16号です。
全54頁、パソコン、ネットの能力差により、読み出しに多くの時間を要する事もあります。

「紺の背広で」三輪 修三
   昭和28年年入社の三輪修三さんの明石での迎えられ方・・・・
   建物は、音に聞いた「明石」の名前からくる印象とは、ほど遠い高等木賃宿
   皆への紹介は後回し、「まず、ちょっとこれ計算をしてくれませんか」だった・・・

「故・川口鉄太郎氏追悼特集」
   創業期の明石のキーマン、川口鉄太郎氏逝去。
   その活躍、思い出を綴る・・・

編集後記
河野健雄、藤間一之、大野亘、鈴木修、添田豊一、の各氏からのメッセージ
(画像情報提供 横山晴行様)


************************ 明石発展期の始まり 昭和28年〜 ***********************

「紺の背広で」  三輪 修三




「あかし」編集委員氏から会社の創立記念号のために昔話をと頼まれたまま、
ずぼらをきめ込んでいましたら1月遅れでも仕方ないから是非」と、
魔女の深情けのようにつき まとわれ、
とうとう一文をものすることに致しました。
もっとも、前号には羽石氏、真下氏など当社にとって神代以来の、
古参の方々が記事を寄せられて居りますし、
また私よりもずっと前からおいでになる人々も少くないので、
いまさらと思いましたが、
私には私なりの想い出や見方もあるので、
とに角入社当時の記憶をたどってみることに致しまし た。

私が入社したのは今から約八年前、昭和二十八年の四月でした。
名古屋の大学を出てポッと東京へ出てここ鮫洲村の住人になった訳です。
学校で材料力学などの実験室では 明石の試験機に顔なじみでしたが、
その製造元を見るのは むろん初めて、
出社の日も四月一日と自分でそう決めていて貰った地図を頼りに道を尋ねてきますと、
あったあっ た、間口が狭くてうなぎの寝床みたいに奥の深い、

一寸くたびれた木造の二階家(現在の製造部事務室の棟ですが当時は今の新館のところにあり、
現工場とくっついていました。
それもどう見ても音に聞いた「明石」の名前から来る 印象とはほど遠い
高等木賃宿が、これから何年か住むべき私の働き所だったのです。



暫く外からまじまじと建屋を眺めていましたが、やがて観念して受付に顔を出しますと
そこにチョコナンと座っていたのがこれはとても美くしいお嬢さんで二度びっくりさせられた訳です。

「明石の受付には すばらしいシャンがいるぞ」と感激して勇躍その門をくぐることになりました。
想えばそのお嬢さんこそ現設計課の 榎本さんだったのでした。



自分の名前を云って「渡辺さん にお目にかかりたいのですが。」「どの渡辺でしょうか?」
「渡辺清さん(現取締役、通称A辺さん)です。」「さあ、 渡辺清さんは二人いるのですけれど...」
これは大変なことになった。
それならあらかじめ肩書きを聞いておくんだったがなどと思いながら
「とに角えらい人だったような気がします、眼鏡を掛けていて」

「困りましたね、二人とも眼鏡をかけていてえらい人なんですが」
 えい、面倒くさい、 どうにでもなれ、
いまさら名古屋まで帰る訳にはゆかないしと、
ともかくどっちの渡辺さんでもいいから
逢ってみてからのことだと考えて二階の応接室
(当時ガラス張りの別 窒があって通称水族館と云われていました。
名付親は真下さんと云う伝説がありますが真偽はわかりません)
に通して貰いました。

その頃は四月になると新入社員が来るなどというきちんとしたしきたりはなかったようで、
それで榎本さんも私が入社して来るなどということは御存じなかったのでしょう。
営業上のお客さんと勘違いされたのか出て来たのは
私の逢おうとしていたのではないもう一人の方の渡辺さん
(通称B辺さん、当時営薬課長相当の方で現在理研に転職されました)でした。

どうも話がちんぶんかんなのでB辺さんもとうとう「それではもう一人の渡辺さんでしょう」と
A辺さんと替っていただきました。

やっと話が通じて一応のあいさつののち、奥の設計室に通され、
「ここが君の席です、それではまず一寸この計算をしてくれま せんか」と
リング検定器の解析を即座に申しつけられました。

同室の人にあいさつをするのでも、会社の由来や現況についての説明を受けるのでもなく。
これには少しあっけにとられて「一体僕の所属の肩書きは何と云うのですか?」
A辺さん暫く考えて居られましたがやおら

「そうだね、ひとに聞かれたらまあ技術部設計課とでも云っておきなさい。」
とにかくのんびりした良き時代でした。

ひと区切りまで計算をした頃別の人があらわれて
「真下です。みんなに紹介 しましょう」と同室の人から始まって工場をひと廻りしました。

その時はじめて工場へ入ったのですが、
当時は機械はみんなベルト掛けで産業革命時代よろしく
天井でプーリー がガタゴトきしんでいて、まことにみごとなものでした。

一度にいろんな人に紹介されたので先方は一人だけ覚えれば良いのですが、
こちらはそういう訳にゆかず、
あいさつして顔を上げた頃にはもうお名前も忘れているといった具合でした。
でも落語家の志ん生に似た風格があるということで市瀬さんだけは印象に残りました。

席に戻って落着いてからまわりを見廻すと私のすぐ後ろの席でえらそうな人が
むづかしい計算をしているのに気がつきました。

ずい分手馴れたような仕事ぶりなので、
僕でも十年位つとめればあれ位にできるのかななどと感心していますと
彼氏は昼食に私を近くのそば屋さんにさそって呉れましたので聞いてみますと

「なーに、僕も一週間ばかり前に入ったばかりの新米ですょ」という次第でまたびっくりしました。
これがのちの営業技術課長、大野さん(今春本田技研に転職されました)だったのです。
明石にはなかなか秀才が多いらしいから頑張らないとついていけなくなるぞと自戒した次第です。

帰る頃になって再びA辺さんに「ところで明日からの出勤時間は?」と聞きましたところ
「八時半ということになっている」と云う含蓄あるお返事でした。

なにぶん私は入社したてで素直なものですからあくる朝は、
正規の初出勤だからと勇んで八時十分すぎ頃会社に入りましたところ、
まだ誰も来ていません。
まわりをガサゴソ片付けて八時半になりましたが誰も姿が見えない。
九時近くになつてボツボツ人が集まり出して九時過ぎにやっと全員が揃いました。

今日は僕には内緒で朝は遅くてもよかったのかなといぶかしんでいましたが、
そのあくる日またその次の日も・・・。

とうとう三輪君はおっそろしく朝が早いということになってしまいました。
A辺さんの云われたことがずっと後になってようやくわかったのでした。
今の皆さんには想像もつかないようなのんびりした話ですが、
そのかわり、退社時間もこの調子で、
終業のベルは一応鳴りはするものの仕事の手をとめる人は一人もなく、
朝遅刻した分以上に遅くまで 仕事をするといった具合でした。

こういったやり方は私とってこれ迄育った大学の研究室での生活と、
同じ調子のものなのでかえって気安さを覚え、
おかげで大学→実社会という生活上の大転換期も、
比較的抵抗も少く順応できたと思っています。

その頃は会社の従業員は約八十人位、丸の内の本社は米国に接収されていたのだそうで、
先代の社長以下営業、経理などみなこの品川工場
(もちろん当時は品川工場なんていう言葉はありませんでしたが)
に固まっていたのでした。

僅か八十人位なので肩書きをつける必要は毛頭なく、
部課の区別もあいまいで決まった名称もありませんでした。

私たちが仕事をしていますと先代の社長はよく姿をみせられ、
とてつもない思い付きを考えられては
「きみ、一寸 こういうものを設計してみてくれないか」と気軽に座り込 んで、
次から次へと変ったものの仕事を仰せつかったもので した。

私たちはきまった日常の仕事を別に持っていますので、こういう飛び入りには面喰いもしましたが、
なかなか刺激のあるもので、ついつい日常の仕事をそっちのけにしてでも、
社長の考案を進めてゆくことになり勝ちでした。

そのうちの一つに、野球のバットの衝撃中心を簡単に求める器 械がありました。
生憎私は野球ができないのでそれ程興味は湧きませんでしたがやっているうちに段々面白くなってきて、
計画図を書き上げるところまで行ったのでした。

残念ながら他の仕事のために製作は致しませんでしたが。
これは、野球でバットを持つと、球の当たる位置に対して衝撃中心に相当する個所を握って、
スイングすれば手に加わる反力がないため、
ホームランを打ち易いという原理によるものだったと記憶しています。

また当時はいわゆる明石式の動つりあい試験機が出始めた時でもあり、
A辺さん、大野さん、長島さんのコンビ に私もそのうちに加わることになつて、
調整、納入試験、アフターサービスや修理などに、あちこち飛び廻るようにな りました。

これにまつわるいろんな珍談、奇談など想い出は尽きないのですが、
これは将来会社の創立百年記念日ぐらいになって、
動つりあい試験機回顧録が出版されるようにでもなったら、
其処に書かせていただくことにしましょう。

その他、入社三日目にA辺さんに大井町の例の中華そば屋「永楽」に連れていってもらったこと、
また若気の至りで会社の損害にならない程度のいろんないたずらをしては、
社長に叱られたりしたこと。

叱られながらまた新手のいたずらを企だてて成功したことなど想い出してもなつかしく
やはりこの八年間はいたずらに無駄めしを喰わなかったと感じます。
 その後会社は益々発展し、人の生産も段違いに増えて参りました。

往時と今とではまわりの条件も違いますから 、
 昔のまではやってゆけないのはあたりまえで、
昔の方がよかったという心算は毛頭ありません。
けれども昔をなつかしむことのできるのは意義のあることですし、
現在および これからの会社を下から支えてゆく私たちにとって、
将来 いつの日か今日この日を想い出したとき、努力のあとを観照して悔いのないように、
日々のつとめを実り多く果してゆくためのよすがとして一文をものしました。

多くの先輩や 同僚の導きとお支えとを感謝しつつ。

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三輪さんの明石入社は昭和28年、上の文を書かれた昭和36年。
この年、4月には新入社員を40名も採用し、明石も元気な時代でした。
この5年後、昭和41年、三輪さん、青山学院大に転出される。
明石会には、第2回から、3、6、8回と計4回出席されました。
9回2016年が1916年創業の明石の100周年でしたが、明石は消えて26年。
動つり合い試験機回顧録は生まれず、
でも、「工学の歴史」という御本を残されました。
12回の明石会には、逝去が伝えられました。
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