明石製作所の会社清算

下は、明石製作所の終焉を当時の日刊工業新聞、日経産業新聞の伝えるところから図解したもの。



会社清算 新聞が伝えた要旨 平成2年(1990)08月21日 日刊工業新聞 日経産業新聞

 (下は2紙の報道内容から要点を抽出したもの :文責は当頁編集者)

計測機器・電子顕微鏡メーカー、 明石製作所(本社東京、社長小野口彰氏、資本金5億円 )は
円高不況以来、業績が伸び悩んでいるため事業の継続を断念、事実上、会社清算へ向けて動き出した。

平成02年(1990)08月20日、東芝(社長青井舒一氏)と
精密測定機の大手メーカーであるミツトヨ(東京都港区芝 社長沼田惠照氏 )
それぞれ明石製作所の電子顕微鏡事業、計測器事業を
平成02年(1990)10月01日から継承すると発表。
明石は一切の生産機能を持たないことになる。

昭和62年(1987)、東芝は明石と共同出資で電子顕微鏡の開発・設計を行う明石ビームテクノロジー
(東京都武蔵野市)を設立していた。
電子顕微鏡の製造は明石製作所に生産委託する形をとっていた。

平成02年(1990)10月01日付で共同出資会社を全額出資会社とし、
生産を東芝グループのトプコン(社長本木正義氏)に移す。
開発・設計についてもトプコンで行うようにし、明石ビームはいずれ解散とする方針。
今後は明石製作所の電子ビーム事業の資産、従業員の引受先を東芝との間で協議する。
これで東芝はトプコンの技術力を強化する。

平成02年(1990)09月中に、ミツトヨは明石製作所が設立する計測機器・試験機事業の子会社、
アカシ(東京、資本金1千万円)の全株を同09月中に取得、
平成02年(1990)10月01日からミツトヨグループの子会社として、新体制をスタートさせる。

同時に明石製作所の計測機器関係の資産、従業員をすべて新会社に移行させる。
ミツトヨは精密測定機の加工、販売で共通メリットがあることから、
仲介に入った日本興業銀行の要請を受けることにした。 買い取り金額は明らかにしていない。

日本興業銀行   明石製作所の終焉に大きな役割を果たした?

明治35年、日本興業銀行は、日本興業銀行法に基づいて設立。
預金でなく、金融債の発行で資金を調達、企業に設備資金、長期運転資金など、
長期資金の貸付を主業務としてきた。
大口の融資先企業には、行員を派遣、役員として、経営参画もした。

昭和40年代、明石製作所でも、団体交渉では、川端利一常務が会社側を代表していたが、
常務は日本興業銀行からの出向と説明されていた。

しかし、平成02年、明石が決断を迫られる時代に、金融業界もグローバル化の中、
厳しい変革を求められ、再編成のただ中にあった。
平成12年(2000)興銀は、第一勧業銀行、富士銀行と共に持株会社みずほホールディングスを設立。
平成14年(2002)に3行が統合・再編されて、みずほ銀行およびみずほコーポレート銀行となる。
日本興業銀行の名前は消えた。

明石和衛、和彦社長が、かつて、乞われて社長を務めた小金井製作所は、
昭和46年5月、和彦会長退任後、興銀からの安岡静長専務取締役が社長に就任している。

平成02年(1990)明石製作所が経営危機の時、12年後に消える日本興業銀行は、
中堅、中小企業の金融を助けた、事業を育てた、かつての輝ける位置になく、
明石製作所救済は、既存大手企業への事業の切売り策しか無かったという事だったろうか。
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