昭和36年(1961)5月発行の社内誌「あかし」第15号です。
全80頁、パソコン、ネットの能力差により、読み出しに多くの時間を要する事もあります。

「昔の明石を顧みて」羽石 平
   昭和9年明石の工場は、丸の内仲7号館の地下にあったと・・・・
   工場は、浅草七軒町から品川へといった単純な流れではないようです。
「むかしのこと」真下美佐男
   昭和42年4月入社の真下さん、当時の少人数所帯の中、皆、1人何役もこなす活躍。
   給与遅配もあったという・・・

「人事往来」には、昭和36年4月入社のメンバー他がリストアップ。

編集後記
河野健雄、鈴木修、両氏からのメッセージ

(画像情報提供 横山晴行様)


************************* 明石戦前・戦中史 **********************

「昔の明石を顧みて」  羽石 平




創立四十五年の歴史を持ち、試験機業界の老舗として創業以来優秀な製品を社会に送り出し
着実にその地歩を固め、今日では業界のトップに立っている 明石は、
世界的にも優秀な製品と折紙をつけられた久野式や、当時業界から賞讃を受けた松村式など、
数多くの優れた製品を生み顧客より長く親しまれて来た。

昭和九年頃、 明石本社は丸の内仲七号館の一階にあり、工場はその地下室にあった。
窓越しに竹葉亭の調理場を眺め、御馳走の香気を一日中かぎながら仕事をし、
又毎日皇居を拝し当時としては型破りの工場だったそうで、作業者も十名位だったと聴いている。

その地下工場が、京浜急行梅屋敷の近くの、 羽賀工場内の一角五十坪程度の工場に移転して
明石蒲田工場が生れた。
駅名になっている梅屋敷はあまり大きなものではなく、梅も二、三本しかない静かな庭園で、
よい休み場所になっていたという事や、 京浜急行の線路越しに大きな空地をとりまいて朝鮮人部落があり、
珍らしい野外結婚式が見られたという話を先輩達より聞いている。

 明石は家族的な会社であった為か、万事がおおらかで、居心地のよい会社だった。
私が芝工場に入ったのは昭和十年の終り頃の事で、翌11年、2.26事件の惨劇のあった頃は、
今の鉄骨の機械及び仕上工場の建物が芝郵便局の筋向いにあった。
今の浜ゴムが当時の明石芝工場跡である。
芝工場は、元東洋印刷の修理工場であったものを、設備機械と人員を含め、明石の傘下に吸収した工場で、
人員も三十名程度だった。

機械も今稼動しているブレーナーや ブランシャブの研磨機など、総てベルト掛の検械が、
十数台あるだけで町工場といった感じだったし、仕上作業者も十数名で、
硬度計,地震計・久野式・松村式などの製作に当っていた。
事務所の仕事は、現在の製造部の管理部門全般の仕事を合せたもので、
人員は私の他三人、朝など机の上や事務所の掃除は私たちの日課の一つだった。

責任者の戸張さんは気難しい方だったので、戸張さんが事務所に入ってこられると同時に、
室内の空気がすっかり変ったもの になってしまうように感じられた。
しかし、そのうるさがたの戸張さんに叱られながらも、何となく親しみを感じ、
仕事の面や社会的な面で教えられる点が多かった。

この頃から工場が品川に移転する話が、私達の耳に入り、
間もなく移転についての計画や仕事の分担などについて知らされた。
私は時折り品川の建設現場に行って、作業の進行状況を見たり雑用を引受けたりした。

当時品川工場の附近は埋め立てたままで、雑草が一面に生え、よい遊び場になっていたし、
休み時間を利用して海岸に出てつり糸をたれ、楽しいひとときをすごす事もあった。

建設工事は予定より大分おくれて昭和十一年の終り頃から移転を始め、
鉄骨の半分が出来上ると同時に機械の移動を始めた。
今の機械の様に直結など一台もなくベルト掛の機械のため、
カウンターを吊るなど何かと面倒な事が多かった。

機械を遊ばせないようにしなけれ ばならず、戸張さんからはせきたてられるし、
仕事は予定通り進まず辛い日の連続だった。
機械の移動が終ると次の工事が待ちかまえており、宿直室に泊ることが多くなり、
当時宿直員だった中村さんには、よく面倒を見ていただいた。

それから間もなく蒲田工場の一団が、今のサービス課の川口さんを総大将として二十名位引越して来た
続いて現重役の渡辺 さんが丸の内から来られるなど、
明石品川工場の陣容も整い、本来の仕事に取りかかった。
工務関係は芝工場、工作関係は蒲田、技術関係は丸の内から来た人員で出発し、
製品も急激な需要の上昇に追われて 総花的に活況を呈して来た。

その頃の明石野球部は 品川工場協会でも断然強く、
当時川辺投手が明石の為に万丈の気をはいたのを思い出す。
日支事変が進展して来るに及んで国家統制が段々強化され、仕事の面でも苦労の多い時代が続いた。
人員も地方から集った養成工や女子挺身隊等で三百人近くまで増大し、
分工場が六郷に完成、疎開工場を相模原の橋本と、山形の赤湯に建設する計画が進められた。

当時試験機も兵器に近い存在となり、戦時中でも生産中止を食わず、
益々増産体制に入ったが、製造工場である限り、兵器そのものを製造するのが当時の宿命だったので、
明石も東京光学と協力して航空校用六分儀の平均装置を作り始めた。
それは主として六郷工場で量産されたが、実戦に使用する事なく終った。
やがて終戦に近づくにつれて応召や空襲のため人員が減り、能率ががた落ちとなり、
お互いの激励や特高警察のきびしい干渉にも拘らず、
生産はまるで軌道をなくした車のように急速に落ちて来た。

そのため一日も早く疎開工場で安んじて操業すべく、あらゆる努力をしたが、
時すでに遅く、疎開工場は稼動する事なく終戦をむかえ、
丸の内の事務所も連合軍の占領する所となったのである。
長い間のこととていろいろの角度からみて、話題は 沢山あると思うが、平穏な時代から戦争、
そして敗戦と変転をきわめた世情の中で、我が明石工場がどの様に歩んで来たか、
記憶をたどり又先輩達の話を聞きかけ足でふり返ってみた。
古い事なので記憶も大分曖昧になり、
多少の違いがあるかもしれない事をお詫びしてこの稿をとじる。


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羽石さんの明石入社は、戦前の昭和10年、2.26事件の前年。
ここでは、創業間もない明石の戦前の職場風景を語られている、貴重な記録です。
この文章を書かれた頃、昭和35年、羽石さんは、製造部長。
昭和57年 常務取締役
昭和62年 総務及び企画担当取締役
昭和63年 取締役
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************************* 明石戦後史(昭和24〜35) **********************

「むかしのこと」 真下美佐男




十年一昔といいます。その頃の話を致しましょう。
私が入社しましたのは昭和二十四年の四月も終りに近い頃でした。
当時明石製作所といいますと、先代社長が時々御見えになり、
現社長、羽石、浅野、 宮内、横山の五人の方々に、
故人になられた留守番兼小使の中村のお爺さんと私が入って七名でした。

又現場は管理の都合上、菅原製作所という名称で、菅原さん(現港精機社長)を社長に
渡辺金吾、川崎(以上停年退職)市瀬、村上、氏家、荒井の方々が居られたと覚えています。

当時皆さんが真剣に取り組んでいましたのは棹秤の生産準備でした。
この棹秤は、社長の考案された分銅なしの独特のもので、桿を黄銅棒でつくり、
この桿を釣鐶に対し動かすことにより秤量を変え、
釣り下げた品物の目方を桿に切った目を釣鐶部の指票で読むという面白いものでした。
しかし秤を作るには免許が必要だとか、
終戦後の混乱も幾分収まりかかって、
桿秤のようなものの需要の見透しに疑問があったためだろうと思います。

遂に本格的生産には入りませんでした。
しかし毎週金曜日の夜、菅原さんを交えて当時の社長室に集って、
一週間の間にやった実験或は検討の結果を発表討議し、
次の一週間の宿題を出すという仕事の進め方でした。
黄銅の直径約十粍、長さ四百粍程の丸棒に秤量の目盛を盛るための研究をしたところ
機械的な方法では安く綺麗に出来る方法がありませんので、
暑い夏の日、社長と東京光学にゆき写真腐蝕法を教えて貰い、それ用の薬品を買い、目盛原板迄つくりました。
しかし他の 仕事が忙しくなるにつれて自然に中止になったように思います。

 戦後の本格的な新製品として七月頃完成したものに動電型の振動台があります。
制御はモータージェネレーター方式ですが、現在振動計の検定室にある大型振動台(ESTI7)と同じものが
鉄道技術究所に納入されました。
当時の価格で百八十万円位で、或る人が社長に「これで一年位は遊べますね」と
半分本気の冗談を言ったので皆んなで本当に嬉しそうに(但し社長は苦笑か?)にこにこしたものでした。

 当時は機械の設計者が居なかったのでA製作所のO氏にアルバイトに設計をして貰ったそうで、
八月 初旬の或る日、社長、羽石、浅野、宮内、O氏の皆さんに私というメンバーで慰労旅行に出かけました。
 行先は山中湖畔の社長の別荘でした。

御殿場迄列車、あとはバスで籠坂峠を越えて山中湖に出るというコ ースです。
当時は末だ山中湖畔も静かで、八月の暑い都塵をはなれて快適な一夜をすごしました。
 角瓶一本のウイスキーで皆さん良い気持になったあとの夕食が、
名コック(複数、敢えて名前を秘しましょう) つくるところのライスカレー、
辛いの辛くないのと、いって一度に酔がさめる程の名料理でした。

 翌日御最場に出たあと急に気が変わって、長尾峠を越えて箱根に登ることになりました。
当時は末だバスの使が無く、荒れた山道を真四角なラジエターグリルのシボレーが
バク音を轟かせながら登るという わけで、他に一台も車をみかけせんでした。
仙石原で車を降り、大涌谷を越えて強羅に出たと覚えています。
皆さんか若く元気で、羽石さんもスマートでしたし、
一同仲々の健脚振りを発揮し、景色を楽 しみながらハイキングしたものです。

兎に角人数が少ないのですから社長が営業、浅野さんが総務(庶務・経理)、羽石さんが購買(資材外註)、
宮内さんが電気主任(研究・技術・兼工作) 私が設計という分担はあったものの甚だ曖昧で、
例えば私は微小硬度計の実験、調整、検査、納入、サービスまでは良いとして、
外註の催促(でかけていつも坐り込み)から他に誰もいない時
(或は都合が 悪い時)は支払催促の撃退までやるという次第で、 皆さんは更にもっと広い万能選手でした。

或る月のこと、社長が急に夜行で大阪にゆくことになり、
翌日が給料日でしたので、小切手を切っておくから翌朝社長宅に取りに来るようにということで退社されました。
その夜は颱風か何かで大分荒れ、翌朝使いに立った中村のお爺さんの報告では、
蒲田の駅前は水が一杯で、膝迄つかって池上線に行き( 「当時の社長宅は久我原)御宅に伺ったら、
目指す小切手はないそうですという。

他の人は知りませんが私は内心「ギョッ」という次第、大弱わりです。
恥しながら懐中無一文に近いのです。
一年は無理としても、半年は遊んでいても食える(?)はずだったのに、
まさか遅配が起きようとは夢にも考えませんでした。

何せ花の東京に田舎から出て来たばかりで、 諸事万端物いりが重なっていましたので、
決して人並み外れた浪費家ではなかったつもりですが、ヤミで綿布を手に入れYシャッ二枚作ったら、
給科の三分の一以上が飛んでしまったという時代でしたから お察し下さい。

幸いと自炊生活なので、ジャガイモ と玉憲に味噌、醤油で二日程しのぎましたが、
当時 煙草を相当吸って居りましたので、ゴールデンバットで節煙をつゞけ、
社長が帰えられた日は懐中僅かに十円、まさに強制禁煙一歩手前でした。

担しこれは末だ誰にも話したことのない秘中の秘、今だから 話しましょうというわけです。
つらさと楽しさの混じったほろ苦い思い出の時代ですが、
又考えよう によっては随分のん気な時代だったとも云えます。

後記

話が懐古趣味になってしまいました。
このような同族意識的なものが会社を発展させてゆくのにブラスになるかどうか、
むしろマイナスの方が多いだろうと自戒しております。
しかし常に新しいものを開拓しようというパイオニアの精神は失いたくないものです。

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真下さんの明石入社は、戦後間もない、昭和24年4月。
この文章を書かれた昭和35年。
戦後の小さな会社の明石の中で、奮闘している様子が綴られた、貴重な記録です。
在任中は、主に硬度計をご担当。
昭和36年 技術部次長
昭和40年 相模工場工場長・その後、相模工大に転出。
----- 論文 -----
・・・明石製作所・・・
微小硬度計による硬さの測定 (1952)
硬さ試験法 (1958)
押込みカタサ値におよぼす負荷速度と荷重保持時間の影響 (1959)
微小硬度計の現状 (1962)
超高温硬さ計の試作と純鉄およびタンタルの高温硬さについて (1970
・・・相模工業大学工学部・・・
硬さの相似性の理論と硬さ試験機の製作 (1985)
ロックウェル硬さと同クオータロード硬さの比較試験 (1986)
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「明石発展期の始まり・昭和28年〜
  ・・三輪さんの「紺の背広で」に続きます。

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