明石和彦社長の小金井製作所の社長責務を軽減 社長代行

小金井製作所は業績を回復し、昭和30年代の後半にいたり
新たな飛躍の兆しが強まってきた。

また、明石製作所においても、長年にわたって積み重ねてきた先端的技術が実を結び
電子顕微鏡の完成、各種製品の輸出拡大など発展期を迎えつつあった。

ここにおいて、明石社長は、明石製作所の経営の近代化を志し、体質改善に専念することとなった。
このため当社の経営に十分意を尽くすことは物理的にも不可能になつたので、
38年12月、当社の経営体制強化をねらい、組織変更を行った。
専務古屋恒助(38年11月17日昇格)に、社長職務を全面移管する社長代行制をとった。
(以上、下の社史から)

明石製作所と小金井製作所は、機械系のメーカーであっても、試験機という完成商品を作る明石と、
工具、部品、サブキットを作る小金井とは、製造管理手法、マーケットも異なり、両者の管理経営を一身で引き受ける事は難事である。
明石製作所の課題に、もっとより多く取り組みたいと考えても許されない。社長代行は、なんとか引き出した解決策だっただろうか。

昭和38年のこの年、電子顕微鏡TRS−80が日本機械学会賞を受賞。明石の電子顕微鏡が輝いていた。
社史も、電子顕微鏡は完成と表現されているが、国内でも、複数社が競う激戦市場、
また、絶えず進歩の中にある商品であれば、常に、完成という状況はなかったのではないだろうか。

昭和36年には、長野県に駒ヶ根工場ができ、昭和37年、駒ヶ根工場は、組合が、全金系の外部からオルグされた組合と二つになり、
全金系労組が不当労働行為で提訴。後に、これは棄却されたが。
こういった問題一つ一つに対処を要求されるのも社長業。勘弁してほしいと思うこともあったのでは。
昭和39年、幸にも、明石にできた労働組合は、全金系と競っての設立であったが、先に旗を掲げる事で混乱を免れている。

下の情報は、「小金井製作所社史」小金井製作所編 1985年11月出版 神奈川県立川崎図書館所蔵のものからコピー。

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