昭和34年(1959)7月発行の社内誌「あかし」第6号です。
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この「調査室」の筆者はどなたでしょうか?
PDFの長文読み始めたら、最後まで引き込まれてしまいました。
在職中に明石の就業規則を見た記憶はないのですが。
こんな物語があったのだと。
戦前に教育を受けただろう、先輩筆者の明石に寄せた思い、
若者に向けての熱いメッセージ他、多くを語られてる中に明石を再発見。
そんな訳で、手がかかってもと、下のファイルから引き出しました。

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=== 就業規則の改正に添えて===
「調査室」

いまから、ちょうど一ヵ年前、当調査室が創設されるに当って、
第一に着手した仕事は人事管理、人間関係の問題であった。
 蓋し(けだし)企業において諸般の項目、手段にあるが、その基幹をなすものは人であり、
人事管理、人間関係の適否は、端的に企業の盛衰に影響する最重要素のひとつである。
すなわち経営者の手腕力量、人柄は社内統率の上に重大なる効果を反映させるものであるとともに、
半ば以上の死命を制する対外信用の間において、重大な要因を孕むものであり、
これと唇歯輔車(しんしほしゃ)の関係にある従業員の人柄、学識、経験、技術、技能、能率は、
企業の 業績向上ないし低下に厳しい審判を齎すものであるからである。

それゆえ、当然のこととして、調査室としては、まず経営者そのものに対しても、
企業の興亡の鍵を握る責任者としていかにあるべきかを再検討してもらう要請を行ない、
しばしばの建白もなして今日にいたった。

しかし、これは本第一号に所載のごとく、
概括して言えば、当社の経営者は、世上一般企業体の経営者陣と比較して、
実にりっぱなものであると言うを憚らない。
これは決して世辞追従でなく、数多くの集積データの比較事実から申すのである。
もちろん、人間のことであるから、万事につき欠陥がないと云うのではない。
しかしながら、まず、人間の第一条件たる人格、品性において、
その学殖、見識において、抜群の優等生であると言ってよい。

ただ、強いて言えば、営業手腕、力量等においては、
世上抜け目のない千軍万馬の商人的経営陣に比べ、
これは卒直に言って見劣りがするのは是非もない。
天、二物を与えずとはよく言ったものであるが、
商売上手な者は、おのずから人柄、品格もいかがわしいものであるし、
人格高潔なる者は商売はどうも下手であるのが通例のようである。

しかしながら、筆者は今後の科学的経営中心主義の時代におい ては、
こういう人間的に一種の商売上手というセンスの効果は、
個人商店ならいざ知らず、大きな企業体となると、極く薄れてくるもので、
それよりも科学的に統一された組織力の方が打勝ってくるものであることを
多くの事例から痛感しているものである。

ゆえに、当社の経営陣に、たとえ商売上手でないようなところがあるとしても、
これはなんら恐観したことはないと思うし、むしろ、ある意味ではよいことだとさえ思っている。

なぜならば、商売上手な経営陣では、品質の悪い製品でもりっぱに売り得る能力もある代り、
売ることに自信を抱き過ぎる結果、自社製品の性能向上、品質管理の面がおろそかになり、
あの会社は売ることは上手であるが、
作ることは下手だと言われるようなことになるおそれがあるからであり、
よりよい同種製品が出てくることになると、
もはやいかに笛吹けども遂に世間は見向きもしなくなるし、
また商売上手の人が、休んだり、死んだりしたら、
経営はストップしてしまう危険を蔵しているからだ。

これに反し、良い品物を作っていれば、
どんなしろうとでも、 駆け出しでも、自信をもって売って歩ける。
品物それ自体が自分で自分を売ってくれるから、
商売上手の人がいてもいなくても、 たいした影響はないからだ。
そうして、売ることが下手だと言うことから、
個人の力でなく 衆智を集める努力となり、
これが組織的に成長し、科学的方法、 手段の探索へ向つて行くからである。

わが社は売ることは下手だったかも知れない。
しかし、これに は第二、第三の応急対策があるから心配ない。

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むしろ経営者の人柄が悪かったら、これはもう救いようがない。
一時はその卓抜な手腕、力量で業務は、繁栄するかも知れないが、
合理的基盤に立たない企業はいつ崩壊するかわからない。
こういう人に使われたら従業員は惨めな目にあうことを、
われわれは幾多の実例から知っている。

これはひとり企業に限らない。
軍隊にいてはことに然り、現実に生死をかけた戦線において、
兵を砲弾雨下の敵前に留き去りにして逃げ去った将軍もいたそうであるが、
こんな経営者についたらか わいそうなものである。

その意味からも、最終的に頼り得るのは経営者の人格でなくて何であろう。
この点、わが社の従業員は実にしあわせであると思う。
あるいは従業員の多くはそれに気がついていないかも知れないが
これは日常最大の恩恵を受けている空気や太陽のありがたさを忘れているに等しいもので、
厳しい世間の生きる苦しさを体験していないことからきていると思う。

さて、次に従業員の側を眺めた場合、そうは言うものの、これだけの世帯となってくると、
常に従業員が経営者と日々接触して行くことは不可能であるから、経営者の善意、愛情が、
じかに従業員の末端まで浸透していないことも考えられるし、
そこに不測の誤解も生じようし、
話せばわかるつまらぬ不満が醸成されていないとも限らないと推測せねばならぬ。

と考えて、まず個人面接を行い、話合ったところ、その際の最大公約数的希望が、
就業規則の明示ということであった。

戦後、業務再開してからでも10年近く閲している今日、
就業規則が明示されていないなどということは、不可思議であったが、
調べてみると、ないどころではない。りっぱな就業規則が作ってあるのだった。

ただ、これが幹部だけに示されていて、
そこから下部へ流すように指令されていたものらしいが、
その中間指令が不徹底だったことが、こんな愚問を発せさせる原因となったものらしい。

これはやはり、企業の発展が逐年急で、日々の仕事に追われていて、
こんなことに眼を注いでいる暇がなかったためであろう。

しかし、決してこれでよいものでなく、企業が組織的体系的合理性を基盤として、
形成されることが、近代的科学的経営方式であるとするならば、
いつそう、この従業員を律する就業規則が、明示されなければならないわけである。

そこで、旧就業規則を研究したところ、なにぶん昭和二五年頃制定されたものゆえ、
当時の混乱した戦後の不安定な社会事情と、今日の安定した環境とを比べてみると、
相当様替りしているため、各所に改訂を加えねばならぬ点を発見した。

一方には、この際従業員の希望にも応えてやりたいことと、もうひとつ、
当明石製作所は、商売下手かも知れないが、技術と作ることにおいては、
少くとも試機業界において、常に先駆をなしてきたものであるし、
その機能設計におけるあるものは、むしろ世界的水準を凌駕するものであることを考えると、
これをなし遂げた経営者もさりながら、従業員の質的評価も凡ならざるものがあるとしてよく、
しかりとすれば、就業規則も世間ありきたりのものでない独特、かつ風格の高いものにしたい。
などと思考しつつ、改正案の作成にかかったものである。

とは言え、実際にやってみると、
第一に労働基準法などというものがあつて、いろいろ制約される点がある。
第二に旧来の慣行は理想的体系を作る上に無視してかかりたかったが、
これまた実際に直面しては、全く看過できない点もでてくるのを免れなかった。

第三に、いくら当社の従業員が、質的に優秀であると言っても、
現況ではあくまで比較の問題であって、やはり日本人であり、
永い間、日本的環境、慣習の中に、良かれ悪しかれ住み馴れてきたものである。

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したがって、いかに水準が高く、合理的であると言っても、
欧米のそれに直訳して適用することはできない障害を感じた。
これらの制約を受けながら、ともかく筆を下ろし、稿を改めること五度び、
漸く脱稿したのが今年初である。
さて実施段階に入ってさらに幾多の曲折を経なければならなかった。

第一に経営者会議である。
第二に準経営者ミドル会議である。
ここにおいて、相当の批判と入念な検討、修正が加えられた。
こうして陽の目をみるにいたったのが、四月中ごろであった。
本来は三月中旬に出す予定であったが、印刷所の不手際でしばしば校正が遅れたためである。

さて新就業規則実施に当って、それぞれの組織を通じて説明を行ったが、
なおその趣旨を概述してみたいと思う。

まず、基本的思想として、人間に対する取扱い方をできるだけ、 民主的にして、
封建的考え方をなくしたいと指向したことである。
たとえてみれば、日本ばかりではないが、昔は士農工商的人間の差別待遇が整然と行われており、
これが明治維新を経て文明開化の時代となつて後も、なお根強く社会慣習として残され、
かつこれは頑固な潜在思想として背景をなしていた。

これが製造工場の場合、職員、工員、雇員の名称となり、工員と言うと何か一段低い職種で、
同時に身分を表示するごとき感じを与えていたことは争えない。

そこで、当今いわゆる進歩的、近代的と言われる会社企業体などで、まだ極く少数ではあるが、
これが廃止されつつある傾向にあるに鑑み、当社はこれを全廃し、
新に管理職、事務職、技術職、労務職等の呼称に換え、
職種は平等であって、職種別は身分差でないことを明らかにするとともに、
給与も従来月給、日給、時給の三本建であったものを、全員月給制に改めた。
飛躍的進歩、革新である。
しかし、一方において社員、準社員の別を置いたことは一見いかにも矛盾したようであり、
不評もあるようであるが、
これは人間の社会の現実性、人間本来の心理性から言って甚だやむない措置である。

いったい、人間本来の欲望の中には、
いかなる制度をあつても蔽うことのできない向上心、優越性があるのである。
平たくいえば、人より豪くなりたい。人より金持ちになりたい、人より美しくなりたい、
人よりうまいものを食べたい、人よりよい家に住みたい。
自分で足らなくなると持ち物を誇るようになる。

太閤秀吉の持っていた茶の湯の茶椀だとか、写楽の大首だとかはいいとして、
フランスのルーブル博物館の屋根の瓦のかけらだとか、ナイル河のわにの爪だとか、
ペルシャねこだとかたわいもないことだが、 無邪気と言えばそれまでだし、
この程度は罪のない話だが、宅の主人は自動車を持っているんざあますよだとか、
こら太郎、お前はどうでも東大を出て、総理大臣になるんだぞ、などとなると、
明らかに社会的にも有毒である。

ともあれ、これあるがため、人間は努力し、苦労をも厭わず勉強もするものである。
しかるにその努力、勉強にしてなんら報いらるるところがないとしたら、
やがて人間は怠惰となり、個人としても、集団としても進歩、向上は停止してしまうであろう。

それゆえ、人間平等、同一労働、同一賃銀を唱えたソビエト共産主義においてさえ、
革命後の歴史過程をみると、この人間本来の欲望を制圧することができず、
国家首脳部は不断の権力争いに血みどろの闘争が続けられているし、
党員にも人民にも身分差を設け、職階制を律し、かつ勲章制度をも復活し、
向上心をそそり、進歩を促しているのである。
しかもその身分差による制度は、封建時代のそれ以上厳しい鉄鎖を課しているものであることは、
既に 世界周知のことである。
ただそれが学校のように同時に同じ年令で就学し、同一教課を受けるものであれば問題はない。

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しかし、社会は組織を形成する個人、個人の智能、教育、技倆、 人格等が相当の相違があり、
これを遇するに単一であることがそもそも不合理である。
職務に精励し、技能、技倆に優秀で、かつ人格もまた清廉、徳望ある者が、
然らざる者と同一処過を受けることはあり得ない。
だからこそ、その差は、物質的には給与において差異がつけられているではないか、
ないし、精神的に管理職という特殊職務における、
一種の優越性において満たされているではないかと言うかも知れないが、
なるほど、会社が営利企業である限り、経与は利益産出附加価値比例で単純に割切れる。

だが同じ程度の技術、智能であると言っても、
他の条件、人格、品性、智性というがごときものは、直に数字で評価し得ないものがある。
管理職と云っても、これは組織構成上の職務であって、
管理するという特種の手腕、力量、経験を有するもので、
かつこれは数席の上で制限があり、用もないのに任命して人を増すわけには行かないとすれば、
やはりこれに代る別の席次が与えられて然るべきである。

この意味からも社員、準社員と区別はあってよいと考えられたためである。
もちろん広義の意味においては従業員は社員としてよく、商店であれば店員であ る。
あくまでも、前述の内部処遇の段階である。
注意しなければならないのは、これは憲法に云う基本的人権とか、
民主々義で言う人権とかいうものとは別のもので、混同してはならない。
基本的人権においては、職種職場の相違がそのまま、
人種的偏見を伴うごときことを排撃しているのであるが、
組織体の中にある秩序、階梯を破壊するものであつてはならない。

それゆえ、当社においても新入社員については、
それがたとえ、世に言う名家、名門の生れであっても、最高学府を出たものであっても、
ともかく新入社員については一律に準社員として扱うこととし、

そこに氏素性、学歴別、性別をしないことにしたのだから、
極めて公平、機会均等の民主主義の常道を実践するのだと称していいと思う。
そうして同じスタート・ラインに並べ、
自由に競争させ、実際に実力のあるものはどしどし抜擢しよう。
人格、品性のりっぱなものはそれなりに報いよう。
と考えたのである。

そこで一応の基準として考えられることは、大学を出て三ヵ年くらいしたならば、
はじめて社員と呼称してもよいではないか。
とすれば高校卒業者は七ヵ年、中学卒業者は10年くらいのところとなる。
といって、大学を出て三年、高校を出て七年すれば、
黙っていても社員になれるのだということでは、
官公吏の場合の機械的、トコロテン式昇進方法と異らず、
学歴さえよければ、
(学歴だけで 人を評価してはいけない。
実力があってもその時の家庭の事情で 行けなかった人もあるから)
さしたる功もないのに自動的に昇進して、
実際に職務に精励して実効をあげている人間が、
万事浮かばれぬという悪弊は探さねばならない。

いくら最高学府を出ても、学歴にあぐらをかいているようなものは、
たとえ三年経っても社員になれないこともあり得るし、
高校卒でも、極めて優秀であれば、五−六年でもりつぱに社員になり得る。
かつこれは職種のいかんを問わず何人にも達し得る。
全く機会均等の道を拓いたもので画期的なものと言えるものである。

しかし、人間の評価は物質を測定するのと違い浮動要素が多く
具体的にズバリと出すことは極めて困難である。
むずかしいことであるがなお実施するには実施する根拠がある。
そもそも、人間の処遇についていつさいの差別を廃そうとする試みは、
古今東西しばしば行われたことである。
しかし今日まで成功したことはなかった。

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利害、損得を超越した宗教の世界においても、 なるほど俗世的評価、経歴、手腕、力量、
ないし学者、富豪、名士、政治家等の看板は通用しないが、
これに代えて精神面の優劣がやはり、
序列化され、りつぱに身分差がつけられている。
芸術、学問の世界皆然り。

旧封建制を打倒して、純粋マルシズム理論に出発した共産主義もまた、
換骨奪胎した身分差を作り上げてしまっている。
所詮、人間の業(ごう)である。
かりにいま、わが社でいっさいの身分差を廃してしまったとしても、
やがて、その従業員の中から身分差を要求する声が起ってくるのは必至自明の理である。

それゆえ、あえてここに取り上げたものである。
小川未明の作品の中にあったと記憶するが、
砂漠に住むラクダの群が、毎日炎熱の続く太陽に飽いて天を仰いで、
他の国には雨というものがあつて、天から水を振舞ってくれるそうだ。
われわれにも雨を与えよと神に向って要求した。
神は応えて連日雨を降らした。
ラクダ共は灰色の空から銀糸を引いて降る雨をみて、もう雨は要 らぬ。太陽を返せと。

われわれ人間はお互に愚かなるものである。
表現の度合いが一様でないだけで、昔、我儘で、利己主義で、勝手で、威張りたがり、
欲しがり、食べたがり、着たがり、飾りたがり、遊びたがり、貪欲で、うらやみ、ねたみ、怒り、
果ては盗み、殺しもやるような危険な種子を胚胎しているものである。
こんなものどもが、外からは法律で柵をされ、内には理性、道徳 の絆で繋がれて
辛うじて、社会を形成しているものである。

考えてみれば、全く情ない、味気ないものである。
しかし、いまさら人間を廃業するわけにも参らぬ。
地球を脱出し て生きるわけにもいかぬ。
として、暗く、湿っぽく、内攻して生きる手はあるまい。
とどのつまり、たかが人間の世界ではあるが、積極的に身を挺して、
国家のために、人類のために貢献するなどということができなくとも、

消極的にせめて自分を楽しく、明るく、和やかに、誇らず、ねたまず、高ぶらず、争わず、
人の陰口を言わず、中傷せず、非礼を行わず、人の邪魔にならず、欲ばらず、出しやばらず、
しとやかに、謙虚に、つつましくして、静かに、ささやかながら、
身分相応の幸福な人生を送りたいものではないか。
考え出すと、きりのないものだ。

どうみても立派な人が恵まれず、世の中から見棄てられて、貧苦の中に淋しく死んで行くかと思うと、
あんな奴がと鼻持ちならぬ下劣な品性行状の者が、巨万の富を築いて、
ペコペと人に頭を下げさせ、王者のように権勢を欲しいままに暮している。
小さな人間の頭脳では理解のできない矛盾に満ちている世の中だ。

いいではないか。
こんなことに腹をたてていては、せっかくの美しい青空に、悪魔のように黒雲が湧いて、
自分の心がいたずらにかき乱され、傷つくばかりだ。第一、健康にもよくない。
われわれの、会社という小さな社会においても、りっぱな経営者のやっていることではあるが、
それでもどの道人間のことだ。

神様のように絶対公平、無私というわけには行くまい。
若干の矛盾が生じてくるのも免かれ得ないことだ。
誰がやっても、・・・それは君がやっても避け得ぬことだ。

批判はいいが、深入りし過ぎて、審くことは止めよ。それは君自身が傷つくばかりだ。
おおらかに、淡々と笑い流して、そのはけ口を仕事に注ぎいだせ。
自己の仕事に熱を傾けよ。仕事はやがて君を捕え、
つまらぬ雑音、喧騒の世界から、静寂な美しいメロデイの聞えてくる別天地に君を誘う。

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われを忘るる陶酔の境地に導き入れるであろう。
そうなったとき、君の荊のようにトゲトゲした心は清らかに、
春の薫風が胸を膨らませてくれることに気がつくだろう。
そのとき、君の姿は傍から見ても美しく、光沢を放つばかり崇高に見えるだろう。
同僚の尊敬を蒐め、上役の信頼を得ずにはおかぬだろう。
それでも認められなかったら?
いいではないか。

知る人ぞ、知る。神は知り給う。
そのとき君は、もはや会社からの褒賞を受くるまでもなく、
君自身の得た心の平和な喜びで満たされ、心ゆくまで幸福を味わっていることだろう。
それでいいのだ。

それが人生最高の幸福なのだ。
よし、そこまでの境地に達しなかったとしても、
君の実力を、その熱心な、その人物を評価し得ぬような会社なり、企業なり、 だったら未練なく去って行き給え。
世の中は盲千人なら、目明き千人だ。必ず君を高遇する者がある筈だ。

さらに若き人々に言う。
なにはともあれ、仕事に、仕事にかじりついて、熱中する虫となれ。
わき目もふらず勉強せよ。
幾歳月は必ず君をそれがしのエキスパートに仕立てあげているだろう。

金銭や数字では評価し得ない信用が厚く君の上に苔のように層をなして繁っているだろう。
そのとき君が黙っていても人が買いにくる。しかも礼を尽して迎えにくる
いまの給料がいくらだから、定年まで稼いでいくら。月にどれだけ貯金して一生にいくら蓄る。

計画は結構だ、貯蓄もたいせつなことだ。 しかしこんな虫には断じてなってはいけない。
君のたいせつな、何よりもたいせつな人格が蝕害される。
筆者は青年時、ある会社の重役をしていて、
血気に委せてやりまくり華々しい活動をしたことがある。

しかし、そのとき厳父からしみじみ論された。
「焦るな。一番大事なことは信用だ。金を貯めよう。成功しょうと焦るな。
着実に、コツコツ、実力を蓄えよ。地道にやって行け。
時期が来れば人が捨てて置かない。財力などは自然について来る。
私など金は要らんと思っているうちに、六〇過ぎてから、いくらでも残って困るほどになった。」

昭和の今太閤と云われた稀代の実業家、故小林一三翁も同じようなことを言われた。
しかしこんな話が心から本当だと肯かれるのはたいてい四〇過ぎてからだ。
若い者にはなかなかピンと来ない。理屈をこねたくなる。
反撥したくなる。理屈はまたいくらでもたつ。

だが、事実はそうなのだから致しかたない。
人間は愚かなものだ、体験の上に出ることはなかなかできない。
ここに老人、先輩、年寄の効用価値がある。
心、卒直に、謙虚 にして聞く者は幸いだ。
覇気は青年の大事な要素だ。だが同時に、謙虚は生涯を通じての要素だ。
会社は営利事楽だ。宗教家や道徳先生より実際に仕事に役立つ手腕家が必要だ。
そのとおりだ。

しかし、個人に手腕力量と平行して優れた人格が尊ばれるように、
法人という会社もまた、社格を備えていねばならぬ。
明石製作所は昔から社格を重んずる法人である。
それあるがために、小さな会社ではありながら、天下一流の会社とあいならんで、
日本にあまねく信用、信頼を克ち得てきたのである。

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法人は経営者と従業員の一致合体したものである。
経営者の人格、信用は既に定評あるもの。
従業員もまた、公平にみて世上一般に比べ水準の高いものと認められる。
しかしながら、累述のごとく人間は愚かものであり、風にそよぐ葦のごとく弱きるのである。
いつ魔がさしたように曲らぬものであない。

決して盤石などと多寡をくくっていられないのである。
経営者、従業員、ともども深く内省、自粛し、欲情を抑えて忍び合い、
あいともに助け合いつつ、コツコツ、地道に社業の発展に力を致したいものである。

ささやかながら、この就業規則には、そのような悲願がこめられてでき上ったものである。
さりとはいえ、人間、ことに、才な所産である。
萬人に満足できるものとは夢々思われない。
不完全なものであろう。
不満はあろう。

しかしながら、くれぐれ、その意図を汲み、忍んで協力されたい。
そうして、これを完璧なものとするための建策を寄せられたいし、
進んでむしろ、就業規則を要しないような会社にすることこそが望ましいではないか。
最後にまたひとつの提唱をして拙文を結びたい。

わが社の標語として、次の三Sをかかげたい。
SMART・SMILE・STUDY だ。

スマートはおしゃれの意味に通常使われているが、
りこうな、気のきいた、頭のよくはたらく、ぴりっとする、などの意味がある。
本当のおしやれというものは、人のまねをして、流行を追って着飾ることではない。
深い教養が基礎となった、利発な鋭い頭脳の閃きからくる独創的なもので、
個性を生かした小気味のよい、きりっと小股の切れ上がったような匂を放つような、
すっきりしたものである。

われわれの人格、品性がそう洗練されたいのである。
これがおのずから外見、外装に現われ、服装も事務室も職場も、
作る製品も、[スマートになって行くのである。
だいたい日本人はスマートさがない。
だからどんな会社へ行っても工場へ行ってもスマートなどかけらもみられない。
当社はひとつ、皆でスマートな会社にしようではないか。
第一、個人個人がスマートになろうではないか。

スマイルはご承知の・ほほえむ・である。
これもまた総じて、日本人に欠けた共通の点である。
表情に乏しいのは東洋人の欠陥だが、言葉があるのだから昔から知らぬわけではない。
どころか、たいせつな美徳としてきたものである。

ところが、いつか日本人は微笑、スマイルを墓に葬ってきたような、 表情になってしまった。
考えてみると筆者の記憶では、どうも昭和六年ころ、満州事変の勃発あたりからだと思う。
確か、正義だ 神国だ、天詳だ、贋懲だ、権益だなどという活字が
新聞に載りだしたころからだと思う。

それから日支事変に入つて八紘一宇だなど言い出して全くいけなくなった。
国民の表情は硬わばり、大平洋戦争がはじまると醜く歪んできた。
戦局が進むにつれ恐怖におびえてきて、終戦間際には灰色に青ざめていた。

これが終戦の勅語を聞いたとたんに、
息を吹き返した病人のようにほのぼのほほに赤味がさして、
これなら昔のように健康な笑い声も聞けるかと希望を抱かせたものだが
、 さて実はなかなか、微笑は戻って来なかった。

餓鬼、畜生のような戦後の暗黒が襲いかかったからだ。
次いで自覚のない、基礎もできない日本人は、おしきせの民主主を着せられて、
作り笑いをしてみたが、何せ着せられた本人が、生地も柄も、 どうやって作るものかも知らないし、着かたもわからない。

そんなのがデモクラシーだ、講和だ、人権だ、同権だ、対等だ、へちまだと、
学理も知らないで叫んだものだから、全く猿芝居で、
滑稽とも、気の毒とも言いようのないもので、識者は微笑ならで苦笑するはかなかった。
次にきたのが、赤のお先棒担いだ労働攻勢だ。

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個人のためなら、焦土の中から飯も食わず、寝もやらず、
四つん這いになつて身を粉にしてでも働く日本人なのに、
勤務先のこととなると勤務時間を少しでも縮めることばかり主張し、
五分、十分でもやかましく権利を突張り、日本人の美徳とされた奉仕、
サービスなどは台風一過のごとく吹き消されてしまった。

そして大挙して資本家に迫り、
一日労働時間を実働八時間から七時間に切詰めさせたり、
何だ彼だと闘争、闘争といきりたった。
常識で考えても、敗戦で莫大な財産を失ったのだから、
これを取り返すためには戦前よりむしろ余計国民は働かねばならぬ筈である。
それが戦勝国のアメリカの労働者のまねをして、働く時間を減らすというのでは、
いったい日本の経済復興は成立つであろうかと、
われわれの表情は再び憂愁に包まれざるを得ぬ心地がしたものである。

幸いにして意外の復興発展を遂げるにいたったのは同慶のいたりではある。
これは資本、経営、労働が三位一体となつて結果したものではあるが、
経済評論の立場から忌憚なく言えば、
資本、経営の中には、アメリカからの多大な援助があったもので、
これを三〇%とみて、
残余が日本の資本家、経営者、労働者を二〇%強ずつ分けあうべきものだろう。

総評あたりに言わせれば、
労働者がその七〇%を稼ぎ出したなどというかも知れないがとんでもない話である。
ところが、西独の場合は違う。

周知のごとく西独の労働者は敗戦の焦土を回復さす共通の目的のために
自己の利害を棚上げし、労働休戦をしてガッチリ資本家、経営者と手を握って、
シャ二ム二働いた、その結果はいかに。
国土において労働入口において、わが国の半数、
しかも敗戦の打撃は、われに数倍する被害を受けながら、
これを極く大雑把にいえば、 二五%程度の能力から出発して、
10余年後の今日は、彼我経済力は向うが四倍に達している。
もっていかんとす。

もし日本労働者が西独と同様にいっさいの労働休暇を行い、
猪突猛進していたとすれば、
少くとも彼とあいならんで東西の双壁となり得たであろう。
もちろんファクターはそれ以外にあるから単純には言えないが、
それでもそれを立証するものとして、
わが国内だけでも、そのように行ない来たった企業は今日、
一介の町工から発して資本金一五億円、月産三〇億円となった実例がある。
彼は いま微笑どころではない。笑、笑いがとまらぬ。

ともかく、企業発展の礎石は労使協調である。
問題はあっても西鉄の労働者のように棚上げして、しばらく不問に付して、
共通の目的である法人企業体の発展のため、全力を打込んでやることだ。
そのためには機械に潤滑油が要るように、
われわれお互に摩擦を避けるためによりよく、回転を円滑にするために、
スマイルというモービル油を切らさぬようにしようではないか。
そしてスタデイにすることだ。コッコッと、地道に、不断に。

昨年秋、ベルリンの国際電子顕微鏡学会に出席した明石社長の通信の一節に、
当社の製品は一番好評を博しています。
よい仕事をしていればいつかは必ず認められるものです。そのとおりだ。
そしてそれが本当の勝利だ。

わが社の従業員は実によく勉強している。
しかしだ。学校の勉強には卒業があるが、会社の勉強には卒業はないのだ。
もっともっとスタデイしよう。
私はかつて、私の受持つ分野の中のある種のものにつき日本一となろうと、
野望を抱いて勉強したことがある。
ばかなほどこわいものはないかも知れないが、いいではないか。

旋盤の技能者が、これに関する限り日本一になろうとアンビタションを抱いて何が悪い。
気笑うべしなどと冷かさずに、こんな覇望は奨めてよい。
そろばん日本一などというものも普通のサラリーマンから出ているのだ。
皆が奮起して何かしらで日本一となったとしたら、わが社は日本一となる。
業容面目一新しよう。ばかげたことなどと笑ってはいけない。

筆者の別懇な某社は、日本一どころではない。
世界一たらんとして全社をあげて大真面目で研鑽している。 数年前ジャーナリストは気違い扱いしていた。
ところが、いまや現実化しつつあるのだ。嘲笑した彼らはシュンとなって、
呆然として見守っている。 奮起しよう。
スタデイハード、スタデイハード

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座談会「明石の昔を語る」には関東大震災のお話も登場。


☆ 座談会 ☆

昭和34年 (1959)





明石の昔を語る [1]

《創 立 時代》

 浅野 「あかし」の第六号に、みんなので、ぜひ昔の話を のせて欲しい。
創立当時の話やその後の話を聞きたいからということで、
終戦前に明石におられた方たちに、お集り願ったわけです。
渡辺重役にご出席いただいたほか、二十年、二十五年勤務の方もおられます。
あまり順を追いますと、おもしろい話が出なくなりますから、
私が大体口をはさみますけどね、自由に一つ、話を願いたいんですが。



渡辺清さん

 渡辺(清) 浅草時代からお話しましようか。
会社の所在地は浅草七軒町二番地でいいと思います。
これは今の御徒町竹町、それから、今は七軒町となおってますかどうですか、
電車の停留所 があって、すぐその前で、電車通りです。
 浅野 竹町という停留所がありすね。
 渡辺(清) 竹町の次だと思いましたね。
 浅野 蔵前の方ですか?
 渡辺(清) 蔵前まで行かないずっと手前の左側です。
それで今どうなっているか行ってみないからわかりませんが、
会社のわきに府立第一高女があったんです。隣りにね。となりって後隣りにね。
それで本館の建物は三階建ての練瓦造りの立派なものでした。
御徒町の駅をおりて、ズーツと都電で行きましても、うまや橋まで行く間に、
立派な建物といえば、山越工作所が一軒、御徒町の角にありまして、
その次くらいかなり立派なのでした。

 浅野 その当時あの辺はどんなだったんですか?
やっぱり家がぎっしりつまってたんですか?
 渡辺(清) 商家がぎっしりでしたね。
 浅野 会社社借家ですか? 自分で建てたんですか。
 渡辺(清) いや、これ建たんでありませんで、
たしか屋井乾電池のおじさんに当る方が、
教育品製造合資会社というのを経営していまして、
それをまあ、明石がたしか買ったわけです。
 浅野 じゃあ 自分の家ですね。
 渡辺(清) それで代の明石さんが、東大を卒業して
経済的なことはわかりませんけど、とにかく買ったものです。
昔としては立派な建物でしてね。その異物の奥が木造の工場なのです。

それから 二階、一階は陳列棚なんかありましたけど、
いろんな教育品を売った関係上いろんなケース等たくさんありました。
マホガニーぬりの立派なものでした。で、その当時は合資会社でした。
 浅野 (社歴をみながら)


浅野倫司さん

最初にありますのは、東京市浅草区浅草七軒町と書いてあります。
大体そうすると、何坪くらいの建物になるんでしょうか?
 渡辺(清)  それ全然覚えていません。
内部はきれいな建物でした。 正面入りますとね、右側が空間がありましてね
機械の陳列所になり、少し行きますとね、二階へ上る大きなはしごがあったんです。
広い立派なものです。

 浅野 やはり何ですか、 なんか入れてやってたんですか?
 渡辺(清) その当時の工員が何人くらいいたかぼえていません。
とにかく私は、二十才くらい、徴兵検査を入社してから受けたんですから。
 浅野 そうですか、それじだいぶ昔ですなあ。(笑)
 渡辺(清) だからそうですね、三十五年くらい前の話です。
 浅野 もっとですね。ハハハハハ
 渡辺(清) ああ、そうですね。
 浅野 四十年くらい前ですかな?
 渡辺(清) あたしの年がわかっちゃ うじゃないか。(笑)
ですから、創立が 大正五年といたしますと、そうですねえ、
たしか知ったのが、それから二、三年く らいたってからですね。
 浅野 大正八年頃、渡辺さんが入社されたわけですか?
 渡辺(清) えー、その当時、そうですね。
社長の方針で市販の手工業のコンパスですね。つい最近まで言っておられたけど、
コンパスという物は世界中に需要があるものだから、
これを世界を相手にして販売をするんだというんで、
コンパスを自動的に作るということを、しよっちゅう念願しておられて、その自動機械を作った。

そうとう金をかけられてね。まあ今の社長がやはり電顕や何か、自分の機械に熱中すると同じように、
いわゆる世界にそれを販売するために......。
それからドイツ製のいろんなコンパスがありましたけどね、そのためにそうとう費用をかけたように思います。
それから建物の右横が三間くらいの道路になってまして
工場の裏にあたる突当りが、あの府立第一高等女学校の裏門なんです。

《前社長の野球》

 渡辺(清) で、その当時の野球が盛んで、今ほどではありませんけど、
われわれが硬球で野球をやりました。
 浅野 渡辺さん野球やれるんですか。
 渡辺(清) 前は毎日その横でキャッチボールをやってた。そうすると、たまにパスするでしよう。
すると、球がそれ、 裏が第一工場の板塀なんです。塀にとうとう穴あけもちゃったんです。
その時に電話でもって文句をくって。
 浅野 ハアハア、その当時、渡辺さんやっぱり投げてたんですか?
 渡辺(清) 手がはれちゃって、図面が書けないくらいでした。
 浅野 ではその当時の名投手で?(笑)
 渡辺(清) それで野球の話のついでですが、その時社長もやはりやられました。
昼休みなどはやられませんでしたけど。


 浅野 社長もやられたんですか?
 渡辺(清) やられましたよ。代々木へ行ってやるんですよ。
斉藤益さんなんか好きな方ですから、おう場所とり役です。(笑)
 浅野 代々木...というと練兵場ですね。
 渡辺(清) ええ今ちょうど、明治神宮の参宮橋を渡って左側が 全部原っぱですね。
あそこで野球するとね、みんな早くきて、 早いものかちで場所きめて、
ネット張っちゃって、日曜というともう数十チームやってきましたね。
社長がやはり負けずぎらいでしたからね。当時の一流プレーヤーつれてくるんですよ。
 浅野 どんな人が来たんですか?
 渡辺(清) そうですね。来たのが法政のまああの当時名ショートといわれた浅井という人かいるんです。
この人の弟ですかね、うかったですね。それから樫岡という一高の選手でしたかね。
キャッチボールしておどろいちゃった。思い切り球がぐーっとくるんでね。
我々がキャッチボールしてるのと手ごたえがちがうんです。 いわゆる重い球です。
 浅野 スピードがあったんですね。その辺でその当時の社長の話を聞きたいですね。前社長の。
 渡辺(清) 試合をやりますと、社長は足が早いでしよう。
ランナーですからね。こういうことがあります。
どこだったか覚えておりませんがね、私が二塁にいて、私のあとにランナーに社長が出た。
こっちを追い越すように走って来るんでよわりましたよ。(笑)


長島保雄さん

 長島 蒲田へ越したのは何年ですか?
 渡辺(清) いや痛 田へ越したのは、もっ と後ですね。
それから その七軒町の生活は、 大正十二年に大喪災が 起るまで続きました。

《創立当時の人々》

 浅野 七軒町時代にいた人でいいる人はだれですか?
   渡辺(清) 今いる人は斉藤益太郎君と、それから鈴木鬼一さんね。
 浅野 川口さんもいたんじゃないんですか?
 渡辺(清) おりました。
 浅野 これは頭のはげぐあいから行くと、どうも・・・(笑)
 浅野 中田与厚さんはどうなんですか?
 渡辺(清) 中田与厚君はね、いましたよ。キャッチボールの仲間でした。
 浅野 あの、やっぱり七軒町時代の...。
 渡辺(清) いや、あれはね、明石にいた人じゃないんです。
 浅野 ああ、そうですね。

 渡辺(清) 左隣りに大倉レントゲンというのがありました。
これは、よくは知りませんが、資本的に何か関係があったのかも。 わかりませんね。
 浅野 斉藤益太郎さんと同じくらいに入って、腕白時代を過ごしたということを聞いておったんですが....
そういうわけでは なかったんですか?
 長島 会社が違うわけですか?
 渡辺(清) うん。
 長島 何か医療器械もやってたそうですね。
 渡辺(清) うん。トランスをこうやって巻くのはうまかったね。
 浅野 その当時は、前社長はね。まだ学生上りで、卒業したば かりで、詰襟の学生服を着て....
 渡辺(清) いやあ、わたしがいた頃は三、四年たってますから、それは知りません。

《震災で焼かれる》

 渡辺(清) 七軒町が焼けてかな今度は.....ま、震災の話ですよ。あれは九月一日ですね。
 浅野 大正十二年ですか。
 渡辺(清) ええ。あの日は朝早くから風雨が激しく表へ出ると、
ほら、水溜りがあり、歩道が洗われているという程度ですから、相当強い雨が降ったんでしょうね。
長靴をはいてね、夏だっ たですから、できたての1トを着て行ったわけですわ。
それでね、会社では長靴ではしようがないから、スリッパはいてた。
で、 十一時五十何分にゴーツと来たわけですね。それでね。
私はあわててね、すく広い梯子段から飛びおりた。いや、駆け下りた。
駆け下りて、それで片っぽのスリッパを脱ぎすてて、とび出しちやったんだ。
出たらばね、私のあとから鈴木さんが来たんだ。
私が電車通りに出ますとね、電車通りは片ッぽは廐橋、片側は上野まで見えるわけでしょ。
それだけのものが働くのが見えるような気がしました。ぐらぐらぐらっとね。
民家は屋根瓦で頭が重いから、それが全部揃って稲穂のようにふれるからもう、波の町ですね。
逆振子ですね。それから、こう働くと壁が落ちるでしょ?
屋根の土が落ちるんでね、煙りがパーッと上るんですよ。
 浅野 実際にその、こういうふうに動くのが.....
 渡辺(清) 見えるんですよ。
 浅野 動くような気がするのじゃなくて.....
 渡辺(清) ええ、ええ。ぐらっ、ぐらっと動くんですよ。
逆振子だから、こうなるんだな。それでね、あの建物で二人死んだ。
 浅野 誰かが飛び出したとき?
 渡辺(清) うん、 そうそう、私のあとから出た人がね。
丁度三階か二階にベランダがあった。 セメントのそれがもろにこう落ちて、下になっちゃって・・・
 浅野 じゃ、危機一発のところでしたね。
 渡辺(清) ええ、それが私の出たあとです。
そのあとで鈴木さんが渡辺君がやられた、やられた、とどなっているんです。
ところがね、私は出てからふり返って見たんです。見ても忘れち やった。
ぐら、ぐら、とやってるでしょう?余震がはげしいですからね。
つぶされたら、もういけん、と見たんですから。瞬間のできごとでね。
**の上をつーっと行っちゃったんです。それを、私がやられた、やられた、というものだから、
そこにいる者 は、あそうか、ということでね。(笑)
それからね、一過間たちましてね、私は行ってみたんです。その辺はその日は焼けなかったんです。
火災は翌日になりまして、上野の松坂屋なんかと一緒に焼けたんです。





 浅野 そうですか。
 渡辺(清) だから、なに、火災がなきゃね、工場なんてもの
 長島 残っておったんですね。
 坂本 火災は、それじゃ、九月一日でなく二日頃から発生したんですか。
 渡辺(清) これは益さんも知っているけれどね、斉藤さんは あの近所にいて焼けたから。
 浅野 はあ、そうですか。何かね、私が聞いたところでは、前社長はね、
地震ていうとすぐ飛び出すんだけど、その時かぎってね、何か逃げないでじっとしたということですね。
 渡辺(清) そう、そう、私の次につぶされた人の上をね、こう這って出た。
 浅野 社長が、ははあ。
 渡辺(清) そのつぶされた人のことを誰も思い出さないんだ。
私は見たんだよ。瞬間にふり返って見たんだけども...。
それが何でわかったかというとね、一過間目に 臭い、臭い、というんだよ。つぶされたっきりでしょう?
足は出てないしね、見てもわかんない。上にセメントのベランダがある。かぶってる。うまい具合にね。
その家の親が探しに来たそうですよ。何回もね。おらんというんで・・・
会社の正面玄関でやられているんだけども、気がつかなかった。
それで、一週間目に、臭い、臭い、というんで、誰かが石を持ち上げてみたらやられてた。
 浅野 ははあ。
 渡辺(清) なぜ一週間もったかというと、あぶられちゃった火でね。
それでそのときね、小使の、毛嫁とか言ったな、いましたがね。
練瓦が、ぼかっ、ぼかっと落ちるので、
危ないというんで、まわりへ柵なんかしてね、
かえって被服廠でもって、一家共に何人か焼け死んだのがいました。
もう1人ね、大倉レントゲンの人が、工場の中で煉瓦か何かでつぶされてね、
重傷を負って、みんなで上野の山なんかへ運んだもんですけどね、とうとうためだった。
だからまあ、直接の被害者は二人でした。
もう、煉瓦ですからね、一たまりもないです。
それいらい、私はもう地震にすっかり弱くてね。
うちでも地震となるとまっさきに飛び出すのはわたしですよ。

《古いマークの地震計》


吉原信吾さん

 浅野 そのために、うちで地霊計をつくったんですか?(笑)
 渡辺(清) それは前からあったんです。
 吉原 今でも東大の地球物理の教室へゆくと、その頃の地震計があります。
 浅野 ほう、あるんですか?
 吉原 あるといっても、ちゃんとしているんではなくってね、 残骸を留めますよ。
で、あれですか、そのとき渡辺金吾さんが 使ってたブラウンシャープが焼けたんですか。
 渡辺(清) いや、それはずっとあとですよ。
 浅野 渡辺金吾さんは、 そのあとですか?
 吉原 いやいや、ブラウンシャープの焼けたのは、震災ではないのですか?
 渡辺(清) いや・・芝の東洋印刷の工場で焼けたんです。
 長島 芝から来たんだよ、いっしょに。
 吉原 あ芝ですか。それじゃ全然ちがいますね。
 渡辺(丈) さっきちょっとこれ見て気がついたんだけど、
この当時の製品についてるマークが今とちょっと違うわけですね。 あれは何か特に....
 渡辺(清) マークはね、こういうマークです。丸に明という字がはいっている。


古い明石マーク

 渡辺(丈) これこれ、これですよ。丸に明石の門、今のやつと違うね。
 吉原 うん、違うね。
 渡辺(丈) これはその当時のですか。やっぱり大正時代のマークですか?
 渡辺(清) ええ、使ったことがある。
 長島 古いね、相当。
 吉原 今でもこのマークのついた地震計がある。
だから地震計は 一番歴史が古いんだ。今そういうのは、こっとう的な存在なんだよ。
 長島 成程ね、博物館行だな。
 吉原 いや、博物館へ行くんけど、それをきれいに洗ってみると、
メッキだとか塗装はね、正常によくついてる。

 浅野 震災後はそれでどうされたんですか?
 渡辺(清) 震災後はね、一時仮事務所を明石さんの自宅、目黒のね。
 浅野 その当時は社長、日黒ですか。
 渡辺(清) 目黒のね、権之助坂傍の小じんまりした洋館でした。
 浅野 そのときには現社長はおられたんですか?
 渡辺(清) 生れたばっかりでしょうな。
 浅野 震災は覚えてたかったと言ってましたね。

 渡辺(清) それからね、とにかく、何かしなくちゃならんので、
機械は全部焼けちゃいましたからね、
それでコンパスのいろんな試作、機械・・・、
うん、その当時ね、そんな特別な機械をやる人にこういう人がいたんです。
あの、東大の工学部教授の山中直次郎という人がいましたね。
その山中先生のお父さんでね、考案物の好きな人がいた。
それでね、その人がほとんどやっていましたがね。
材料試験機に至っては、ほとんど満足なのがなかった。

やっぱり私の入ったころにね、あるんですよ。
これは明石さんの 特許で、ゴムの袋があるんです。
 浅野 ゴムの袋というと?
 渡辺(清) 技術的なものは言ってもしょうがないけどね、
メジャリング・キャンバーってね、力を計るチーンパーがあるんだよね。
こう圧力、力かかる。ゴムの袋を入れて中にグリセリンを入れるとこがある。
それからプレッシャーがかかるとゴムがこうちぢむでしょう。
中の液の圧力が上るんで、マノメーターで見ようってわけですよね。
そういうのをね、砲兵工廠に納めたんだ。 私が。行ったことかありましたよ。
袋を取りかえにね。あの空気が完ぺきに抜けないんです。
そのためにね、袋が参っちゃってね。
 浅野 あの渡辺さんね、
以前に社長と協力して、松村式の材料試験機をやられたってのは・・・
 渡辺(清) ああ、松村式を始めたのは何年頃からか知りませんけれどね、
松村式を主としてやったのは佐藤礼吉さんです。
 浅野 はあ、はあ、それはずっとあとの話ですか?

 渡辺(清) 何年頃でしたかねえ。
やはり、松村式を作った第一 号機というのは皆、小松製作所でやるという話でしたね。
だからあれはいっだったかなあ。もう年代順に覚えてないものだから。


氏家平二さん

 氏家 松村式は渡辺さんが設計したんじゃないんですか?
 渡辺(清) いやあ、ちがう。
 氏家 違うんですか。
 浅野 あれは傑作だって話を聞いたんですかね。松村式の五トンですか?
 渡辺(清) 松村式は..
 氏家 五トンに三十五トン。
 渡辺(清) あ、三十五トン。
 氏家 そうですね。
 渡辺(清) その前に松村式三十トンという工合にいろんな型が変った。
 氏家 それからあの、五十トンというやつをやったですね、あとから。
 渡辺(清) ああ、 ああ、あれを大きくしたね。
 氏家 ええ、あれ、 こう、ぱかっと割れたんですね、いっか。
 渡辺(清) そんな ことがあったかな。
 氏家 ええ、あったんですよ、あれ。
 坂本 油圧の?
 長島 いやあ、あの松村式はね、油圧じゃない。
 氏家 量が五トンの......
 長島 あれは、ここへ来てからでしょう。
 坂本 そう、ここへ来てから。
 渡辺(清) どうも覚えがないなあ。
 勝田 いや、スイッチ切るのを忘れて・・・
 長島、氏家オーバーしてね。
 渡辺(清) それではたまらない。


(つずく)

社内誌「あかし」の編集人の手元にあるのは、森井時夫さん提供の、この6号が最古の号、
そして、その後のものは、昭和35年の10号に飛びます。
従って、残念ながら、この続きは、紹介できません。残念です。

     巻末の人事往来のお迎えとは中途入社・新入社員のお名前

     研究部電気計測係 小野口彰、宇本正、尾上賢
     研究部機械計測係 佐野隆司、中山淳司、岩崎昌三、松本孟
     生産部 設計係   大串雄一、井田尊、八木章
     生産部 計画係   池浜賢一郎、岡村恭子
     生産部 検査係   森井時夫、森浩之
     製造部 工作課   松井千田
     製造部機械第一班 宮下義之、池谷溢??男
     製造部機械第二班 田村尤、中島勲、奥田誠治
     製造部仕上第一班 岡本武男、近野達男
     製造部仕上第二班 原昭
     製造部電気工作課 松本紀靖、泉重郎
     製造部 外注係   鈴木玲子
     総務部 庶務課   渡辺三郎、小宮山富子
     営業部 営業課   中島公、山脇亨、市川宗男、保科恭子
     総務部 経理課   伊藤恭子

     計33名の皆さん。


  上の「あかし」のお迎え情報他を参考にして、昭和34年、当時の明石の組織図を描いてみました。
   昭和36年には、技術部ができて、この組織とは変わっているが、この昭和34年、合ってるでしょうか。
  

5月10日、創立43周年記念・永年勤続者表彰

 十ヶ年勤続 羽石平(製造部) 真下美佐男(生産部) 宮内孝治(製造部) 横山澄子(庶務) 

羽石さん他三名の皆さんは、昭和24年5月10日以前の入社ということになりますか。

(社内誌「あかし6号」情報提供 森井時夫様)

全44頁、パソコン、ネットの能力差により、読み出しに多くの時間を要する事もあります。



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